2021年12月25日土曜日

ピアスタッフの為の小さな継続学習会(3) 

9月から学習会を始めました。私たちも試行錯誤の手探り状態でまずはお試し的な意味合いも含め、当面はクローズで実施の予定です。

しばらくこの試みをやってみた後に、参加者を募って学習会を開けたらと考えており、現在はその準備も兼ねているといった感じです。参加希望の方には大変心苦しいですがご案内が整う時期がきたら、しっぷろWEBサイトにて案内するように致しますので何卒よろしくお願い申し上げます。

第3回学習会(勉強会)を2021年11月28日(日)に行いました。この学習会は、ピアサポートワーカーとして働くことについてなどをコツコツと学ぶための学習会をまずは小さいサイズの固定メンバーではじめてみよう、ということではじめました。内容について知りたい方もいらっしゃるかもと思い、少し共有させていただきます。


この日は、

  • 参加者同士の自己紹介

  • 学習内容

  • 今日感じたことの分かちあい & 今後の予定確認など…をしました 


 
学習会資料

ImROCの「ピアサポートワーカー:理論と実践」(5. Peer Support Workers: Theory and Practice) https://imroc.org/wp-content/uploads/2013/06/5ImROC-Peer-Support-Workers-Theory-and-Practice.pdf(2021 .09..25確認 )

(p.8-9) ピアサポートのコア原則 (Box 3: The core principles of peer supportから) 


「コアとなる原則」 ② Reciprocal(互恵性)

メンタルヘルスの専門家と支援する人々の間の伝統的な関係は、専門家(専門職)と非専門家(患者・クライエント)を前提としたものです。ピアの関係は、そのような特別な専門知識を主張するものではなく異なる世界観を共有し、探求し、一緒に解決策を生み出していくことです。

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  • 「伝統的な」という表現に、これまでそのように伝わってきたのだな、ということをイメージ。専門家と非専門家、というのがこれまで伝わってきたんだなということを「伝統的な」という表現から感じた。

  • 「異なる世界観を共有し」…似たような体験をしても違っている、と前回あったが、ここでも似たような経験をしていても世界観は違うんだなと思った。

  • 「探求し」ということを自分は考えてみなかった部分で、探求というところを新鮮だと感じた。

  • 異なる世界観を共有し、ということで互いに異なる視野を共有できたらいいなと思いつつ、なかなかそれに心を開けないときもあって。かといって、同じ世界観の人とばかりつながっていても、狭い感じもする。

  • 互恵性:互いに恵み、互いにいいものがあるというイメージなのだけれど、一緒に解決策を見いだしていくことということが互恵性と少し合わない感じがした。解決策を見いだすことが互恵性なのかな、、、とピンとこなくて。共有と探求は恵みだと思うのだけれど、最後が解決策なのか、、と。

    • 解決策と言ってしまうと、ピアワーカーが引っ張るみたいに思われてしまうかもと思ったけれど、後ろに書いてある一緒に解決策を考え合うとか、共に、お互いのためになることを考え合うというのがあったらいいなと思った。

    • 一緒に考え、生み出していく、というところがポイントなのかなと思っている。手立てがないところから、共に考えて新しく生み出していくというプロセスが、結果的に互いに恵みをもたらすということ、専門知識で何かをということではなくて、というイメージなのではないかと思った。

    • 一緒にひらめいた、みたいな経験がどんな感じであるかなぁと。

  • その結果、互いに恵みをもたらすんだなと思ったら、わかった。一緒にやった結果、違う者同士で良かったね、違う価値観の者同士で、新しい視野が開けた、というのがあってよかった、最終的に恵みをもたらしたね、ということだなと思った。

  • それぞれ、お互いに違うものを調べていて、コラボ!って感じに、いいものを一緒に見つけた経験がある。別にどちらが引っ張ったと言うことでもなく。そういうのがピアサポートの中でもあるかもと思った。

  • 一緒に大掃除をする友達がいる。一緒にと言ってもLINEを繋いでおしゃべりしながら、それぞれの手を動かしながら、大掃除をする。一人ではなかなかできないことも、雑談しながら一緒にだとできる。この感覚。

  • つまり伝統的な関係だけど、何かを持っている人が持っていない人に教えるとか。でもそうじゃない感じのことかも。一緒にいろんなことを持ち寄るっている感じなのかなと今思った。

  • 一緒に解決策を「生み出す」ということは、ないところから作っていくってことなのかな、と。ある企画をするにあたり、上司と話をしながら決めていくのだけれど、こういうときにはあの人にも聞いてみようよ等、考えていることを共有して、一緒に解決策を見いだしたことなのかなと。

  • solutions…、一言で言うと解決策になるのかもしれないけれど、でも向かいたい方向に進むとかそんなこともあるのかな?こうなりたいという方向にむかって一緒にとりくむ、創造するとか?だともっとピアサポート的な感じかな?

  • これどうなんですか?って言われたときに、どうなんでしょうね、って言ってしまう事が多いのだけれど、それは一緒に考えたいね、という意味でそう言っている。対等に、そしてスタッフ然としないかというのをどうやったらできるのだろうと模索している。

  • 「それは辛いだろうねぇ」とか返したら、共感されたいのではなくて明確な指示が欲しかったと言われてショックを受けたことがある

  • どうしようね、どうだろうね、というのは自分もそう言ったりする。自分の経験をあまり言ってしまうと、相手が引いちゃうこととかがあるので、相手に多めに話してもらった後で一緒に考えたいなと思っている。でも、自分ばかり話してしまったり、スタッフという立場があるので相手によっては「スタッフにこう言われた」と受け取られてしまうことも。

  • 明らかに自分と似たような課題を持っている人と、ツールを使ってピアサポートをするというのはやりやすいけれど、それ以外の場合には葛藤も多いなと思っている。

  • 相手の人が異なる世界観を共有したくない、という価値観の場合(共有したい自分と共有したくない相手と)。それもまた異なる世界観なので、難しいなと思った。

  • 怒られちゃったとか嫌われちゃったと思う人と、次に会うときに、また、挨拶をして、それを重ねていくって感じ?

  • この部分をこの人と共有できるかなぁと勝手に思って、「私も似たようなことがあって」と言ってしまったら、相手にとってはびっくりしたことだったみたいで、関係がぎくしゃくしてしまった。このため、次に会ったときに、突然言ってしまってごめんなさいと謝ったら、相手はあっさり、大丈夫ですよと言ってくれたのだが、自分は落ち込んでしまった。人によっては経験を急に言われたらびっくりしちゃうとはわかっていたのに。自分のタイミングじゃなくて、相手のタイミングなんだなと改めて思った。また、関係性ができているという自分の思い込みではなく、相手の様子をとらえて、どの部分なら言ってもいいかなとか、言ったときの相手の様子とかをみないといけないんだなと反省した。

  • いろんなことがあるという覚悟をもつ。うまくいくこと、良いことばかりでもないと思う。

  • 「大きな感情」におびえていないことを表す。

    • とまどっているんです、ということを言っちゃいけないということではないように思う。ゆれました、と言っても良いと思う。

    • 「大きな感情におびえていない」をみて思ったのは、従来は、相手の調子を崩させてはいけないとか、相手の力を見くびるとかそんな風におもった。自分は実はこういう風に思ったんだよねと言えるのかもしれないのに、それを言ってしまうと相手が調子を崩すのではないか、と、専門職側が思ってしまっていたことがあったのではないかと思った。

  • ピアの関係では、世界観を共有できると思う。しかし、共有できないという場合には、ピアとピアの関係ではないのかな、と思った。しかし、そこで共有できないということがあるとしたら、そこを考えることは大事だと思う。

  • 共有したくないと言える関係はすごく大事だと思った。

  • ピアとピアの関係は、人と人との関係に近いものがあると思っている。そういう関係性にあるときは、なんでも話せる。タイミングを見計らわなくてすむ。話したいから話そう、と主体と共に話している感じ。相手もそうだとしたら、今ってつながってるよね、と思う関係がある。

  • タイミングによっては閉ざされることもあったり、開かれたりもあったり。

  • 関係は常に変わるものという前提がある。同じ人との関係であったとしても、上司と部下、とか、ファシリテーターと参加者だったり、いろいろな関係があり得る。その中にピアとピアもある。

  • 異なる世界観を共有することを求めていない人の場合。例えば、こちらがピアの関係になりたいと思っていても、相手はピアの関係になりたいとは思っていなくて、「問題解決をして欲しい」と思っている場合には、ピアサポートは押しつけになってしまう?そんなときにピアスタッフはどうしたらよいのか。

  • ピアの関係にある人からも、問題解決して欲しいと言われることもある。問題解決が悪いわけではない。そのときにはピアとピアという関係ではないとは思うけれど。

  • 時には一緒に生み出すというものではないこともある。いろいろな形があってよいということをお互いが知っていればよいのでは、と思う。

  • ピアサポートの関係やピアスタッフは、いつでもピアとピアの関係でいないといけないとなったらすごく窮屈になっちゃうと思ったので、この話ができてほっとした。

感想

  • 関係が変わっていって良いという話が自分にとってすごくよかったなぁとおもった。共感されたいんじゃなくて指示がほしかったと言われたときにショックだったし、いつも指示する立場だと続けられないなと思ったことがあって。でもいつもその役割じゃなくてもよいと思えてよかった。

  • 最後の話を全て咀嚼できているわけではないが、いつもこうでなければと思ったら、肩の力が入っちゃうけれども、今はこっち、今はこっち、とかスイッチしていけたら、もう少し楽にやれるのかな、と思った。

  • こういう場があって本当にありがたいとつくづく思いました。知っていたことであっても、見えなくなっていたところにスポットライトをあてて見直すことが学びにつながるなと思った。一人ではできないことだと思い、皆でやることが学びにつながる。

  • 皆さんの話を聴いて、なるほどな、と学びをたくさんいただいたし、自分の思ったことを口に出すことで、自分はそういう風に考えていたんだということがわかったり、お話しすることで癒やされたりということがあって嬉しい時間だった。自分がショックを受けたことなども話ができて、これからもいろんなことがあると思うが、また頑張っていきたいなと思える時間だった。

  • 関係性がいつも同じではないというのが、その通りだと思った。実践していく上では絶対にそうなるだろうなと。瞬間瞬間の関係で変わっていく。両方求められるとつらいという話も聞いたりする。しかし現実的に働いていく中で、このような関係だけ、となるのも大変だろうと思っていた。たくさん質問させていただいてありがとうございました。

  • 互恵性ってなかなか難しいと思っていた。支援の場面では、ついつい問題解決を目指してしまったり、先走った支援をしてしまったりしてめげてしまうこともあったが、その時々のタイミングによって、こういった関わり方もある、またこういった関わりもある・・・と流動的に考えて良いのかな、と思えてよかった。その根底に、大事にしているピアサポートの関係があれば良いのかなと自分は解釈した。自分の中で難しいと思っていたことへのヒントをもらえた。





この学習会を含め、2021年度のしっぷろの活動は、「草の根市民基金・ぐらん」様の助成により実現しています。草の根市民基金・ぐらんさんのWEBサイトはこちら → https://citizensfund-grand.org/

2021年12月24日金曜日

27日目 アドベントblog 最終日です

クリスマスイブの夜。もう23:41です。どうしましょう、全然書くことがまとまりません。

年末に差し掛かってから、なんだか毎日にあっぷあっぷしていて「今日」が来る直前まで「今日の準備」ができない感じがしています。

そんなこんな言っても、今日が終わり、そして2021年が終わってしまいますね。今年はみなさんにとってどんな1年だったでしょうか。


わたしは、すこぅし鍛えられた1年でした。

緊張を伴う仕事から抜け出せなくなり、追い詰められたような気持ちになってしまったこと。ひとが怖くなり、誰にどうやってヘルプを出せばよいのかわからなくなってしまったこと。

結果的には周りの人たちに救ってもらったのですが、改めて自分が本当にひとりでは生きられないことを知り、そしてまだもう少し何かがんばりたいと思う気持ちについても見つめたのでした。

自分が不調に陥るきっかけや状況をわかっていたつもりでも、気づけばそういった沼に落ち込んでしまう。学習能力がないとか危機管理が甘いとか色々聞こえてくる気がしてしまうのですが、でも、やっぱり落ちてしまうのです。

つらつら考えるけれど、でも、やっぱり、これは致し方ないことだとも思います。潮の満ち引きのように、海の動きのように予測できないように環境も心持ちも動くのだもの。

潮の満ち引きは、その場にただ漂っているだけでは気づきにくい。大局を見てわかることも多いように、少し客観的に距離を持ったりしないとわからない。そのレンズを変えることは自分ではできなくて、むしろ自分ではない他者が他者のレンズで見て気づかせてくれることもあるのですね。

ひとはひとあってこそのもの。ひとが怖いことも多いけれど、ひとに救われて生かされている面も多いと振り返ります。

お互いに漂いながら支え合いながら深まりながら続いていく営みを、力を抜いて味わっていけたらよいなあと思いました。


みなさま、今年も大変お世話になりました。どうか良いお年をお迎えください。

つぶやきびと:みどりん

2021年12月23日木曜日

26日目 ピアとしての経験が邪魔をするとき

ふぅ。。。あと数日で冬休みです。そして冬休み前のなんだかわからない(ってことも無いか…)バタバタに追われてあっという間に一日が終わっていきます。。。トホホ。

 

そして一日を終えるこの夜の時間に考えていることは、「経験が邪魔をするとき」ということについて脳内がグルグルしています。この話題は日中のお仕事の中で考えるきっかけを頂いたのと、しっぷろメンバーのにしこさんから前にも考えるきっかけを頂いていたテーマでした。

 

近年、ピアサポートやピアサポーター、ピアスタッフに関心がある人達の間では「経験を有すること、それがピアの専門性」と捉えられることが増えているように思います。(※ここでいう経験というのは病そのものによる経験や、病を有したことによって得た経験、もっと広くとらえるとこれまで生きてきた人生経験をさす感じで思って頂けるといいかしら)

 

確かにそれはひとつあるだろうと思うのですが、経験を有するがゆえに、目の前の方の今に対して、自分自身が経験を有することから来る先入観の持ち込みや自分の中の価値判断の持ち込みなどによって、「ただ聞く」ということをより難しくさせることがあるだろうなと考えるわけです。きっと理想としては「ありままを聴く」「判断をしない」などを心の中心に掲げる方は多いだろうと思うのですが、実際の自分に目を向けた際に、これは本当に難しいことのように思います。


ピアサポーター、ピアスタッフとして自分の経験を語ることをよくリカバリーストーリーと言ったりしますが、ここの部分がかなり大きく取り上げられることで、当事者性を活かす働きは語ること・経験を分かち合うことに主眼が置かれがちですが、本当にそれでいいのかなとおもうことしばしばです。「くち」を使って言葉を紡ぎ出すこともとても大切な営みだとは思うのですが、同じかそれ以上に「みみ」を活かす(耳が物的に感じるようでしたらこころと置き換えて頂いてもよいです)こともとても大事になってくるわけで、その為にはさらに「聴くこと」と同じくらいに「聴けなくなること」についても関心を寄せることが大事になってくるだろうと思っています。

 

そういう私自身も出来ていないと感じることが多いので、道半ば。

思うことは沢山あるのですが少し長くなってきてしまったので今日はこの辺で。


(つぶやき人:りえちん)


2021年12月22日水曜日

25日目 医療のできそうなこと

 今日は昨日体内に入れた薬剤のせいで身体が重く、痛い感じです。

たまにこういう体験があるのですがこの感覚は、経験した人には伝わりやすいかもだけど、でも同じ薬でも人によって起きる反応は違うのですよねぇ。

薬の副作用も症状も、その他いろんな体験が、経験者は言葉の説明なくして共通に思い起こせることがピアでの通じ合う感覚だと思うのですが、本当に同じ感覚を思い起こしているかは誰にもわからないですねぇ。ピアサポートは共通の体験のある人の間でって私はすぐ言っちゃうけど、もう少し考えられそうだなー

それと、薬の副作用とか体調の悪さとかどんな理由でも、身体が重いだるいというのは、活力や主体性が削られる感じがあって、この辺り(副作用をゼロにする、体調の向上のあたり)の対処というか予防を医療はもっとできそうだなと思ったりしました。

ぼんやりと考えたことの呟きで、しかもなんだかウキウキ感の全くない感じで後ろめたく思いつつ。






2021年12月21日火曜日

24日目 お互いさま

アドベントがすっかり終わってから24日目を書いていて、申し訳ありませんm(_ _)m。


兵庫県のとある地域では、ピアサポーターが、訪問先の利用者にかかわるときに「介入」という言葉を使っていたりします。初めて耳にしたときは、まじかっ、と驚いた。介入という言葉がダメという訳ではないが、一方向でほとんど相互性がない言葉に感じられるからでした。


ピアサポーターには深い意味はたぶんなくて、周りの支援者と同じ言葉を使っているにすぎないことは理解しています。介入には違和感を感じる私ですが、日常的に支援という言葉はよく使うので、支援という言葉に抵抗感がある人たちには似たり寄ったりかも。ちなみに、支援や介入に、相互という言葉を頭につけてみると、相互支援は頻出される使い方ですが、相互介入という用例は多くありません。



ピアサポートは「仲間同士の支え合い」、相互の、お互いさまの関係という意味合いが前提のように思います。


ピアスタッフのように、対価を得て、目の前の利用者や患者とかかわるときには、1対1のその場の関係だけを見れば、お互いさまの関係にはならないように思われます。ピアスタッフがサービスを提供している側であることは否めません。



もっぱら、話を聴く役割はピアスタッフであり、ピアスタッフが自分ごとの悩みを話すことがあったとしても、それはオプションのようなもので、話を聴くことを提供している側であることは変わりません。相互的にではなく、一方向的なサポート、もっと言えば、ケアをする立場かもしれません。



お友だちの関係であれば、その場では相談に乗っていて、一方向的に傾聴したとしても、別の日の別の場所では、相談に乗る立場が逆転しているかもしれません。お互いさまの関係です。ピアスタッフと利用者はこの立場が逆転することがなく、どうしても一方向的のままです。



ピアスタッフの相互性はあるのでしょうか。同じようなメンタルヘルスの疾患を抱えているという共通性が、かろうじてお互いさまの関係につなぎとめられているのかもしれません。メンタルヘルスの疾患があれば精神科医療や福祉を利用することになりますし、悪くいえば、医療や福祉に翻弄される立場です。同じような偏見にもさらされます。クライシスなどのリスクを抱えながら生活していたりします。



ところで、ソフトウェア業界には「ドッグフードを食べる」という言葉があります。ドッグフードの製造メーカーが自社のドッグフードを食べる、という意味から転じて、自社製品を開発している際に、発売前のテスト段階から開発中の製品を使いながら開発を続けることを言います。開発中の製品を使うことは不具合が多く残されているために非効率ですが、その方が潜在的な不具合を発見しやすく改良しやすいからですね。



ピアスタッフは、ドッグフードを食べることに似ているかもしれない、と思います。自分たちが仕事の領域である医療や福祉の不十分さ、あるいは、良質さは、そのまま自分達に跳ね返ってきます。ピアスタッフのサポートは、そのまま、自分たちに跳ね返ってくるからこそ、目の前の利用者とお互いさまの関係と言えるのかもしれません。



2021年12月20日月曜日

23日目 ヘニャヘニャの世界から

 こんばんは❄️ながおかもんです(。◝‿◜。)


今週末は仙台でも雪が降りました。雨が夜中に雪に変わり、朝はすっかり積もっていて、

今が冬であることを実感しました。


最近はとても多くの人に助けられていました。

自分で自分のことが信じられなくなった時(…自分の力が及ばないと感じたり、頑張ることができなくてどうしたらいいかわからない時など…)に、自分の力ではどうしても這い上がれない時があります。ダメな部分やできなかった過去、失敗だけがぐるぐるしてしまって、不安や恐怖だけが強くなってしまう感覚です。

一人ではどうしようもできなくて、友人や恩人に思い切ってそんな気持ちを伝えてみました。

その時に、友人からは「大丈夫だと信じている、そんな感じがする」という言葉をかけられました。

恩人からは「そういう不安を抱えることは、とても大切なこと。その不安がこれからのことに必要なこと」という言葉をいただきました。

今までの私は、そんなことを言ったって…でも(もっと状況をよくしたい)、でも(もっとすごい自分でありたい)…、と言葉を受け取りきれなかった気がしています。

自分の弱い現状を認めたこと、人の力が必要なんだということを自分に認めたことで、暖かいサポートを受け取れた感覚があります。

うまく言えないのですけど、もしかして、今までも多くのサポートや自分を支える言葉があったのに、私は受け取ることをしなかったのかも…と思いました。

でもきっと、自分を信じている人の存在はいて、自分がへにゃっとなった時はそういう人達の存在、言葉を自分の灯台として良いのかも。だって私はいつも光っていることはできないのだもの。

リカバリーを支える人の構えとして、「対象者が自分のことを信じる前に、支援者が相手のことを信じる」という言葉を聞いたことがあります(うろ覚えですがニュアンス的にはこんな感じ)。

自分がヘニャヘニャな体験をして、そのことの意味を実感した出来事でした。


温かい言葉をかけてくれた人達に感謝を込めて。

そして、私と同じように力が湧かなかったり不安や恐怖の中にいる人達に、

どうか自分を信じてくれる人の存在に気づいたり現れたりすることができますように。

ながおかもんでした。





2021年12月19日日曜日

22日目 SNS事情あれこれ

 

 

にしこさんもおっしゃっていましたが、朝晩の冷え込みが強くなってきました。ぶるぶる震えながら自転車をこぐ毎日ですが、皆さまお変わりないでしょうか?

そしてもう日曜日!1週間があっという間でびっくりしてしまいます。


りえちんさん、みどりんさんのブログを見て、私も思うことがあり今日はそんな話題です。 

皆さまはメールやLINEはされていますでしょうか?私は両方ともしているのですが、結構これが難しい…となっています。

例えばスタンプ。北斗の拳のスタンプがあって、ドンピシャ世代の私としてはぜひ多用したいのですが、結構言葉がきついので(わかりますか…?)、これを送ってしまったら相手がどのように受け取るかしら、、と考えた末に全く使わず。私の人となり(ふざけるのが好き)がわかっている人にのみ送っています。

先日、悲しみを表現するために、泣いている写真(これはfacebookのメッセンジャー、GIFで面白い写真が送れるもの)を送った後、その方が私のことをほめてくださったので、照れている写真を送ったら、さっきまでの涙が嘘みたいに笑っている~といわれ、いやいや、違うんですよ、照れてるんです、というやり取りがありました。

こちらの意図するものが相手に伝わらないときってあるなあとしみじみしてしまいました。そんな時、今回みたいなやり取りができたら誤解は多分解けるはずですが、それができなかったら、すごく失礼になるかも、と思ったり。

言葉もメッセージもイメージも、送るとなると本当に難しい。あちらが今どんな状況かでも違うかもしれないですし…うーん。でもそこでためらっているとコミュニケーションができなくなりますし、、本当に難しいです。皆さまはそんなこと、ないでしょうか。


さて、私の担当回は今日で最後となりましたが、24日まで、しっぷろメンバーがつないでいきますので、どうか最後までアドベントブログ、お楽しみください(*^^*)
それでは皆さま、メリークリスマス!

(つぶやきびと:えみ)

2021年12月18日土曜日

21日目 犀の角


「犀の角のようにただ独り歩め」

 

こんにちは!にしこです。

東京は今日あたりから、一段と寒くなりました。みなさんお変わりありませんか?

 


「ブッダのことば」(中村元 訳 岩波文庫 1984)に「犀の角(サイのツノ)」という一節があります。訳者によると「犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ」という意味だそうです。

 

 

「人は支えあって生きていくもの」とよく言います。ピアサポートも「仲間同士の支えあい」と定義されることがあります。でも「支えあい」と「もたれあい」はまた違うものと私は思います。


長い人生、一人の力だけで生きていくのは不可能です。やはり周りの人の存在が、人の人生を支えているという見方は正しいでしょう。ですが人生の歩を進めるのはその人自身の力によってです。人に頼り切るような「もたれあい」を前提とするのでなく、まずは子鹿のようにふるふるとでも、自分で立つことが大事なのではないかと思います。時に人から支えられ、人を支えながらも、自分の力で自らの信じる道を切り開いてゆく、生きるというのはそんなものかなと思います。

 


こんな威勢のいいことを言いつつも、私自身はよろよろと今にも倒れそうです。みなさん、これからも声援や交友をお願いします。


 みなさま、お風邪など召しませぬように。


(つぶやきびと:にしこ)




 

2021年12月17日金曜日

20日目 やりとりの中で起きていること

 

昨日のりえちんの投稿を読んで考えました。

受け取る、って、簡単なことではないですよね。。


コミュニケーションって、ひととひととのやりとりだけれど、そこを細分化してみると


1.メッセージが発される(言葉とは限らない)

2.自分の受容体の全部をつかって感じ取る

3.湧き上がってきた自分の感覚を感じ取る

4.お相手に応答する(言葉とは限らない)


実はこんなプロセスがあるように思います。

そしてそう、このプロセスに時間をかけていなかったことに気付いた時期がありました。

それはたしか、自分の存在に揺らぎを感じた時でした。今までなんて反射的に反応を返していたんだろう、こころのフィルターを通さずに上部だけのありきたりの言葉でコミュニケーションをとっていたんだろう。それに気づいたらさらに言葉を発することが怖くなりました。特にこの3→4のプロセスが難しくて、「これは私の思い込みや偏見ではないか」「これを言ったら〜〜なのではないか」「自分にこれを言う資格はないのではないか」「こんな無意味なことを言うぐらいなら黙っていた方がよいのではないか」「黙っていたら相手に違和感を覚えさせてしまうかもしれない」「あの人ならもっといいことが言えるだろうに・・」etcetcがぐるぐるぐるぐる自分の頭の中をめぐっていて、相手が間の長さに戸惑っているのを感じることもしばしばでした。

それでも、それでいいからお相手の発信してくださったことと向き合いたいと思ったのは、おそらくわたしのメッセージにただただ寄り添ってくれる人たちがいたからでした。わたしのやり場のない不安や哀しみや怒りと認識できていない怒りをただそこにいて受け取ってくれる人たち。何か言葉をくれたり、一緒に涙を流してくれたり、わたしの代わりに怒ってくれることもあるけれど、言葉もなくただ一緒にわたしの垂れ流す感情に付き合ってくれ、感じてくれて、その場にいてくれる。時には、ただただ見守っていてくれる人もいる。どんなわたしの感情も在り方もそのままでいいと受けとってくれている感覚にすごく救われ、癒されてきたのでした。

そうか、言葉ではないのだ。どんな綺麗な言葉よりも、ただそこにいて受け取ってくれる、その感覚に救われたのです。おそらく、ぐちゃぐちゃな自分の感情も、耳を傾ける価値あるものとして受け取ってもらっている気がしたのだと振り返ります。


ばたばたした毎日の中で、時々忘れてしまいそうになってしまいます。言葉だけのキャッチボールになってしまったり反射的に返してしまう時もある。でも、やっぱり原点に戻りたい。

そもそも、こころのうちを発してくださることがありがたい。それを全身で受け取り、ゆっくりと自分のこころを通わせながら対話を重ねていくような、そんな時間を大事にできるひとにわたしはなりたい。

(つぶやきびと:みどりん)


2021年12月16日木曜日

19日目 受けとり合うこと

アドベントBlogも19日目ですね。そして今年もあと〇日、と意識しはじめるようになってきました。さて今日も何を書こうかしら、、、。

 

忙しかったり、気持ちに余裕が持てなくなると心がささくれ立ってしまって自分に優しくできなかったり、人に対しても丁寧にできなくなる時があります。あと厄介なのは”自分ばっかり…○○”といった気持ちとか。病気の影響やらなんやらで20代後半~30代前半はそんな気持ちが心の大部分をしめていたなぁと振り返ります。今は人との関係性の経験も重ね、そんな自分をだいぶ慈しめるようになったかな。

 

そして余裕がない時、一人で勝手に悲しくなってしまう時、またはプンスカしてしまう時は人の気持ちが受けとれなくなっているなぁと思うのですね。自分にとってあまり心地の良くない気持ちは尚更受けとれないですし、自分にとってありがたい気持ちでさえもなんだか上手に受けとれなかったりして。でもそんな自分に気が付いて、いまではだいぶ受けとり上手になってきたように思います。(昔に比べたら…という感じではありますが)

 

目の前の人が困っておられるとか、苦しい時には何かしてあげたいという気持ちは本当に尊い気持ちだなぁと思う一方で、もしかしたらピアサポートにおいてより要になってくるのは、「何かしてあげたい」(話を聞いてあげたい、自分の経験を伝えてあげたい…といったことを良くお聞きします)ということ以上にシンプルに相手の思いをまずは「受けとる」ということなのかなぁと思ったりしていました。ではその受けとることの具体は何?という話にもなりそうですね。「受けとられない」ってどんな感じだろう、どんなことだろう?と考えると少しみえてきたりするでしょうか。

 

まとまりませんが、今日はここまでにしたいと思います。


(つぶやき人:りえちん)

2021年12月15日水曜日

18日目 深呼吸

 気付けばもう12月も15日。わー、あれもこれも積み残していますけれども、、、と自分に驚きつつ、みんなのブログを読んでいて、ああ、みんなも、はかはかしたり、追い込まれたり、そんな状況なのね、となんだか親近感です。

最近深呼吸をしてなかったな、と今日は気付きました。

自分としては、いつもゆったりと穏やかな空気で過ごせていると気持ちが良くて、そのためには深呼吸をしたりリラックスをしたり、ということをいろいろやっていきたいなぁと思っています。

ピアサポートなど誰かと過ごすときにも、そんなゆったり感で一緒にいられたら、自分のことも相手のことも押し込めずにいられそうだなぁと思ったり。

(つぶやき人 ゆっきぃ)



2021年12月14日火曜日

17日目

いろいろと追い込まれてヤバイのですが、17は7番目の素数だなぁと気づいてちょっと嬉しい。

相談員として働いていると、たまにか、ときどきか、相談に来た方から
「どうやって元気になったのですか?」とか「病気を克服したのですか?」という質問を
受けたり「どうやったら寛解できるだろう、、、」と悩みを聞くことがあります。

そうか、この人にとって病気は克服するものなんだなぁ、なるほどなぁ、思うこともあれば、
切実に治りたい、寛解したいという時期は私にもありましたから、そう思うのは不思議ではなく、
そうだよねぇとも思ったりします。

個人的には、医学的な寛解を目指す方向から、調子が悪くなった時にどうするかを考えておく
考え方にシフトしてから生きやすくなったと感じています。体調が悪くなることは避けられない
かもしれず、もしもの備えがあることで日々の不安が減るといった感じです。無理をしないと
いうやり方とも違うですよね。

こんな風に直球で答えたとしたら、私なりの正解に導こうとしている感じは伝わるようで、
ピンと来ないような反応がよくあるパターンかも。

そうかと思えば、ふとした会話の中で、今の住まいを選ぶときにもし休職しても傷病手当金の
範囲内で家賃を支払えることを条件に探したとか、壁紙やカーテンは寝込んだ時に安心できる
色合いや柄で選んだ、といったエピソードが口から出たりすると、こちらの意図とは別に、
寛解を考えないで備えを重視する生き方が伝わっていることが起こったりしています。

上の例で言えば、直球の返答は、私はこのような生き方をしていますが、いかがでしょうか?
という提案のようなものかもしれず、提案された側は、(暗黙のうちに)反応を返さないと
いけない気持ちになるかもしれません。

ふとした会話の良いところは、提案する意図がないので、選択を突きつけていないからなのか、
目の前の人にとって自由なんだろうなぁ、自由であると自分自身で何かに気づけるのだろうなぁ、
と最近気づくことがありました。

(かや)


2021年12月13日月曜日

16日目 doの前のbe

 こんばんは!ながおかもんです。

アドベントブログも16日目です。私自身も他のメンバーのブログを楽しみに読んでいます🎅

みどりんの「はかはか」も、仙台人の私は標準語だと思っていました。「はかはかする」使いますね〜。


今日のタイトルは「doの前のbe」。私の英語能力は怪しいので正確な使い方ではないかもな(汗)と思いながら、タイトルにつけてみました。

先週、「こども若者」に関する研修を聴講する機会がありました。

講義を聴講していて、自分で表現することが難しいこどもや若者に対しての関わりとして、安心できる大人として存在し続けるということがキーワードとして多く出ていました。困りごと対して、直接解決はできなくても、話を聴く、存在が大切であることの声がけをする、その関係ができることによって、ようやく話をし始めることがあるということや、自分の存在を受入受け止める存在がいることの意義が語られていました。

ああ、これってすごくこども若者だけではなく、どんな人でも大切なことだよなと思っていました。

私はいわゆる支援の現場にいるのですけど、「何をするか」の前に「その人にとってどうあるのか」ということが大事なのかなと思っています。

ピアサポートが素晴らしいと思うのは、関わりのあり方で、「解決」に直結する何かをすぐするのではないのだけど、相手との寄り添い方やその関係性だなと思います。相手の困難を言葉にしないでも寄り添うその姿勢はとてもbeingだなぁと思うのです。

うまくまとまらないのですが、今日はここまで、で。


(つぶやきびと:ながおかもん)


2021年12月12日日曜日

15日目 ラジオにて

 

あっという間に一週間ですねえ。

そしてクリスマスももうすぐ!

いたるところにクリスマスソングとピカピカの電気が光っていて、何となく気持ちが浮足立って、ケンタッキーを頼まなくて良いのかな?という気持ちが波のようにわいてきて、去っていくことを繰り返しています。

 

先日、昼間にラジオを聞いていたのですが、視聴者からメール(手紙?)で寄せられた悩みに対して、映画コメンテーターのリリコさんが答えるというコーナーがありました。大学生の女性からで、夏くらいまでは学校の課題を一生懸命やっていたのに、急にやる気がなくなって何も手につかず、苦しいとのこと。

その後のリリコさんの回答が「自分にもそんな時があったよ」、というところから始まり、ちょっと運動するのもよいよ、あとはまずは何もしないで寝る!という期間を作ってみる、そうすると何かやりたい気持ちがわいてくるかも、というもの。最初の回答はなんだか少しドキッとしたのですが(その方がでも私は同じじゃないし、とか思ったかも…など)、その後の回答は私がどなたかに相談されてもいうかも!と思いました。

私も同じ、という事の言葉の繊細さ(相手の顔が見えていないから余計)と、たとえ専門家と呼ばれる人じゃなくても、人は人が癒えるための手段をちゃんと知っていて、それが誰かに伝わるっていいな、と感じたエピソードでした。

 

そして最後に元気を出して!ということでボラーレ♪が流れて、なんだか私も元気が出たのでした。

2021年12月11日土曜日

14日目 トラウマから見えるピアサポートの新たな地平

こんにちは!にしこです。

札幌に来ています。

目的は2つ。博士論文研究のための調査と、それからアメリカのオークランド大学から来日されている宅香菜子先生の講演を聴くためです。


今日は宅先生の講演会でした。「コロナ禍と心の成長 ー PTG研究から考える」というタイトルの講演会です。宅先生のご専門のPTGをわかりやすく説明していただいた講演会でした。


PTGとは Post Traumatic Growth(心的外傷後成長)のことで、「強いストレス症状を引き起こす,つらく苦しい出来事やトラウマをきっかけに,悩み,精神的なもがきを経験することで人間として成長する現象」(宅先生のHPから)をいいます。


最近、トラウマに対してピアサポートが何ができるのか、できないのかに、私の興味は向いています。それはトラウマの話題からピアサポートを捉え直したら、ピアサポートの新たな可能性や地平が見えてくるかもしれないと思うからです。




アメリカなどでは、ピアサポートの議論にトラウマの話題が取り上げられることがよくあると聞きます。「トラウマ・インフォームド・ピアサポート」という言葉もあるそうです。(りえちんさんから教えてもらいました。りえちんさん、ありがとう!)アメリカでは、精神疾患・アディクションを主に扱うピアサポートの軸(州認定のピアスペシャリストとして知られています)とは別に、退役軍人の方のPTSDを専門に扱うピアサポートの軸(こちらは連邦政府認定のピアスペシャリスト)が存在します。ひょっとしたら、後者の軸の影響からトラウマが扱われるという事情もあるのかもしれません。私の想像ですが。


一方で日本では今のところ、ピアサポートの領域でトラウマの話題が取り上げられる機会はそう多くありません。でも精神疾患や精神障がいのある私たちの仲間の多くは、大なり小なり「こころのケガ」をかかえていると感じます。それは病気になる前に負って、そして病気のきっかけになったようなケガもあるでしょうし、病気になったことで負ってしまったケガもあるでしょう。そういった「こころのケガ」つまりトラウマにピアサポートが向き合うことは意味のあることと考えます。


そしてトラウマ・インフォームドなピアサポート、つまりトラウマについて知りそれに配慮したピアサポートを考える上で、PTGはとても大きな示唆を与えてくれると思います。




今日の宅先生の講演で特に印象に残ったことは、第1にPTGは「成長を促していきましょう」といったような成長を目指していく考えではないこと。つまりベネフィット・ファインディング(成果を追い求める)といった考えではないことです。第2には相手の話にただ耳を傾けること、つまり「聴くこと」が大事で、ただその「聴くこと」は本当はかなり難しいということです。


これらのことは、私たちピアスタッフが提供するピアサポートワークにも大きな示唆を与えてくれると思います。第1点のベネフィット(成果)を追い求めないという視点は、成果としてのリカバリーを基盤としたピアサポートに対し、それ以外の形のピアサポートもありそうだということを教えてくれていると思います。第2点の「聴くこと」に関しては、リカバリーストーリーを「語る」ことでロールモデルとなるピアサポートに対して、聴くことによるアドボケイトとしてのピアサポートの可能性を教えてくれると思いました。


このように、PTGとピアサポートの接点を探りつつ、日本でのトラウマ・インフォームドなピアサポートのあり方を考えていくことによって、ピアサポートの新たな形なり可能性や地平が開けるかもしれません。




今日の講演会では他にも得るところが大きかったです、何より宅先生と直接お話しする機会をもらえて、サインまでいただいて、一緒に記念写真まで撮ってもらっちゃったー。


他のもろもろの話は次の機会に。


つぶやきびと:にしこ





2021年12月10日金曜日

13 日目 はかはかする

 12月に入って、色々と追い立てられるような感覚にはかはかしています。

この「はかはかする」。実は方言らしいと知ったのは最近で、どうやら宮城や福島あたりで使われるようです(本当かしら?)。胸がどきどきする、息苦しい、ハラハラする。そんな意味で使われるようですが、わたしはもっぱら「不安や緊張が高まって落ち着かない様子」のとき、伴って呼吸も浅くて苦しいような感じのときに使っています。

やらなきゃいけない(と思っている)ことが積まれてきて焦ったり、プレッシャーを感じる人間関係のさなかにあったりしたとき、よく胸がはかはかするのです。そして、いまもそんなかんじ。

深呼吸をしてみたり、自己流マインドフルネスをしてみたり、「だいじょうぶ」と言い聞かせてみたり色々するのだけど、今日のはちょっと強烈。なかなか「はかはか」が飛んでいきません。


どうしたらいいのかしら。


ひとりでは解決できない気がするので、なにかにサポートを受けられたらありがたい。どんな声かけをしてもらえるかしら。のそのそとそんなことを考えました。


「大丈夫だよ、今の状況はたいしたことないよ」と言葉をかけられたら。

いなすように諭すように言われたら自分の思考をすごく軽んじられている気がしてイラっとすることもあるだろうけれど、普段からの関係性によってはなんだそんな深刻にならなくてもいいのかと安心することもあるかもしれません。


「なんでそんなふうに感じるの?」と言われたら。

詰問口調で立って言われたら苦しいだろうけれど、やさしく隣に座ってこのはかはかの意味を探ろうと寄り添ってくれたら和らぎそうな気もします。


単なる言葉じゃないんですよね。当たり前だけれど、お互いの表情や雰囲気、口調、語気、言葉選びや間の置き方で相手に与える印象も大きく変わってくる。ピアサポートの関係が拡がる世界は、これらの要素をひっくるめて自分も相手も尊いと思えて大切に関わることができそう。こころの羽を少なくともぎゅっと閉じなくてもよいような世界なのかもしれませんね。

そんな世界を心に描いたら、すこーしはかはかが、遠くに行ってくれた気がします。

またすぐにはかはかしちゃうかもしれないけれど、ちょっとずつこんな時間をもちたいと思っています。

(つぶやきびと:みどりん)

2021年12月9日木曜日

12日目 こころが整う場

 アドベントBlog、12日目です。

写真はスヌーピーミュージアムのスヌーピー。きちんとクリスマス仕様になっていました^^


ふむー。今日は色々な自分の気持ちや、ほかの人の気持ちを聞かせてもらう機会が多くて、気持ちがゆらゆら、どんぶらどんぶらと揺れています。悪い揺れではなくて漂う波に乗っているような感じといいますか。


そして今夜は、しっぷろの定例ミーティングの日でした。このしっぷろメンバーとの月に1度の定例ミーティングはいつの間にか自分の中での安心基地といいますか、心が整う場所の1つとなっていて、しっぷろの活動アレコレを話すという前提であっても、それぞれの近況やいま感じている事、こんな風に考えてみたんだけど、、、というのがピアスタッフとして働くということに身を置く自分にとってのグループスーパービジョンの様な役割も果たしてくれているように感じます。

 

働く中で悩まない、ということがある訳は無くて、グルグルしっぱなしの日もあるんですね。それでも日々自分が出来る働きを全うできているのは、ピアスタッフの仲間の存在もそうですが、ピアスタッフじゃなくても、このピアスタッフ・ピアサポーターのことについて関心を寄せ、一緒に考えてくれる仲間の支え無しには働き続けられないだろうと思うのです。

 

具体的な支えがありがたいときもあるけれど、まずは自分にとっての心の居場所になっているなぁ、それは本当にありがたいことだと思うのです。そして、さらに自分自身が大切にしたいことというか、一歩進んでやっていきたいこととして、そんなありがたいなぁ、救われるわぁ~、ホッとするわぁ~、という自分が仲間の支えで得られた恩恵を独り占めしないで、他の誰かにも(とくに、いま行き詰っているピアスタッフやピアサポーターさんに)おすそ分けできないかな、、、と考えるのでした。もちろん自分が無理なくできる範囲になるので、大きなことはできないかも知れません。

  

近年、ピアスタッフやピアサポーターの人たちの間で盛んに言われている事として「病や困難の経験のわかあい」とか「病や困難によって置かれた立場を経験したからこそ見えること、感じられることの共有」とか、そんなことにこの役割の意義を見出している人が多くおられると思うのですね。ただそこに足りないというか、まだ育っていないのは、病や困難を経験した当事者としての~~~(分かち合い)に加えて、ピアスタッフ・ピアサポーターの立場を経験したことによって感じていることや、見えたことの分かち合いの場がまだまだ少ないなぁと思うのでした。つまりピアスタッフ・ピアサポーター同士のピアサポートの場といいますか。

 

昨日一昨日の、かやさん&ゆっきぃの流れを汲むと、そんなところにしっぷろのWEBサイトでの発信がなにかお役に立てることがあるのではないかな~~と思って始めた活動です。まだまだよちよち歩きだったり、(少しハイハイくらいはできるようになったか??)しますが焦らずこの活動を育てていって、ピアスタッフ・ピアサポーターにとってのピアサポートの場のひとつになれたらなぁと夢見るのでした。

(つぶやき人:りえちん)


2021年12月8日水曜日

11日目 ピアサポートとこころの羽

ネットのピアサポートについてのかやさんの記事を読んで、
私もどんなにインターネットに助けられたことか、
同じ困難を抱える人の書き込みや、その人達のやりとりを見たり
痛みの様子などは全然知らないながらも
ネットで見かけた言葉にものすごく力をもらったり励まされたり
したなー、と物思いにふけっておりました。

私は、
自分のままでいていいと感じられて、
自分のこころの羽を伸ばすことのできるような
そんな関係やそんな場をどんな風に作っていけるかに関心があります。

これって、ピアサポートの関係に限らないわけですが、
ピアサポートの場にこうなりやすい要素があるようにも思っています。

何かそこにパワー(権力)の違いがあったり
引け目があったりすると、なかなかそのような場にならなくて、
対等な関係というあたりと、
それぞれが「自分にとっては」という観点で話すというあたりが
ピアサポートで大事なところなのかな、とか考えています。

なんだかアドベントっぽくない感じで
まとまりのないつぶやきを書いていて気が引けますが
またもや中途半端につぶやいてみました。

(つぶやき人:ゆっきぃ)



2021年12月7日火曜日

10日目 ネットとピアサポートとかニッチな話題とか

 

カラオケ歌い放題、
焼肉食べ放題、
蟹食べ放題

じつは世間が喜ぶキーワード、ピンとこないままの人生を過ごしているかやが担当する
10日目。。。。。


焼肉と蟹は年1回あれば十分、自分のお金で食べるかと言われると悩む。
カラオケにいたっては苦痛でしかなかったり。
みんなで楽しめるものに共感しづらいと生きづらいんですよね。
今でも、あそこの焼き肉美味しいですよねーと話題を合わせていたり
(美味しいと自分のお金で食べるくらいの好きとは別なんですよねぇ、この感覚分かるかなぁ)。


子どもの頃から趣味はニッチな傾向があって、星が好きだったので、10代の頃は
海外の天文雑誌を購読していたり(ちゃんと読めないのに!)、大学時代の青春は夜空という
暗闇で過ごしたり。


おかげで、NASAが撮影したしし座流星群の解析をお手伝いする機会があったり。
嬉しいこともたくさんあったけれど、身近に同じような人は多くなく、同好の志との
やりとりは黎明期だったインターネットでした。


渇望していた情報が手に入る、つながれることは何よりの喜び。
インターネットがなければ、世間が喜ぶキーワードに押しつぶされて、
どうしていたんでしょうね。インターネットは救いでした。


ピアサポートの分野でもネットが広がってきました。COVID-19の影響もあって、オンライン
ミーティングも当たり前になってきました。私が仕事で出会った20代、30代の当事者のなかに
は、初めて当事者と話しをした場所はネットという方がちらほらおられます。


オンラインでピアサポートは可能なのか?対面でなければ難しいのでは、という問いを
よく耳にしますが、現実はすでにオンラインでのピアサポートが広がっている印象です。
今日もオンラインでのピアサポートの研修がありました。


都会では、当事者の人口もそこそこにいて、交通網も整備されているので、対面でも当事者と
出会いやすいかもですが、人口が少ない田舎では当事者の数も少なく、交通も不便。
当事者と出会うことのコストがとても高くなります。
ピアサポートの場にたどりつくためにネットを必要とする人は大勢いるのでしょう。


ちなみに、わたしがWRAP(元気回復行動プラン)を知ったのは2009年のこと、
場所は普及しはじめたばかりのTwitter。
のどかな里山に住んでいてひきこもっていた時期でした。
あの情報にどれだけ救われたのだろう!


自分が病気になりたての頃、苦しかった頃をふりかえると、同じような病気の人であっても、
ちょっとした違い……年齢、職歴、病気になってからの年月、飲んでる薬の違いが気になって、
他の当事者とつながることを妨げていたような気がします。

ネットの場合、対面よりもニッチな集まりをつくることがしやすいと思うので、
より自分に近い(と思っている)人たちと出会えるかもしれません。
そんな時の最初の一歩にネットは有効かもしれないなぁと漠然と思ったりします。


リテラシーに差がある人たちが集まる研修などではまだまだ課題は多くあるけれど、
自分の関心ごとや好きで集まる場所にはネットは強いですよね。

オンラインには、セキュリティや匿名性の課題もあるけれども、
みんなとはちょっと違う話をしたい時に、情報がほしい時に、つながれる手段が
これからもあるといいなぁと思いますねぇ。

しっぷろも、そんな場所の一つであれば良いなぁ。



2021年12月6日月曜日

9日目 アドベントキャンドル

 こんばんは!ながおかもんです。


アドベントブログも2週目に入りましたね。

キリスト教のアドベントでは、4本のキャンドルを用意して1週間ごとに火を灯すそうです。

キャンドルの意味を調べてみたら、1週目は「希望」、2週目は「平和(平安)」、3週目は「喜び」、4週目は「愛」を表しているそうです。(ながおか調べ。宗派によって違ったりするかもしれません)


希望、平安、喜び、愛、かぁ。なんか素敵ですね。

素敵だなぁと思いながらも、それを感じることが難しい状況もあるなぁと思ったりもします。

苦しくて苦しくてとてもそんなこと感じることができない。

そんな時は思い切ってその気持ち誰かに話してみたら良いのかもしれません。誰か、話せそうな人に。

これまで付き合いがある人でも良いでしょうし、案外と自分のことを知らない人の方が話しやすいこともあるかもしれません。


希望や平安、喜びや愛が、必要な人達にに届きますように。



(つぶやきびと ながおかもん)



2021年12月5日日曜日

8日目 経験の広がり

 

今、とある市で行われている家族会、当事者の方の会に木曜日、月一回参加させていただいています。2時間開催されるその会は、私にとっても様々な経験を聞く大事な機会となっています。

精神科医として参加するのですが、その間に私がお話しすることは必要最低限のことで、とても短いです。診察場面での一対一の関係ではなく、そこには多くの対話があります。
いいなあと思うのは、家族の方が、こんな時、どんなことを感じているんでしょう、どんな言葉かけをした方が良いんでしょう、と当事者の方に聞いていること。
一通りの病の知識があったとして、とても太刀打ちできないほどの豊かな経験、言葉がそれぞれの方に宿っています。私はただ耳を傾け、生の言葉を自分の中に蓄積させていきます。

その会に参加される方が、この一回一回の経験の話がそのままになってしまうのはもったいない、どこかにデータとして残せないか、とおっしゃっていて、私もそんなことができたらなあと思ったりします。これだけAIが発達してきたのだから(といってもテクノロジー音痴の私には何をどうできるかはわからないのですが…)、残せたり、取り出せたり、それがまた次につながっていったり、という形ができていけばよいなあと思ったりします。

そんなことを思う木曜日の午後でした。

(つぶやきびと:えみ)

 

2021年12月4日土曜日

7日目 喪中はがき

こんにちは!にしこです。

毎年この時期になると、喪中欠礼のはがきがポツポツ届きます。昔は祖父君、祖母君が亡くなりましたという知らせが多かったけど、私のような歳になると、友人からの喪中はがきの多くは実のお父様、お母様の逝去の知らせが多くなります。私の場合、それが親しい友人だったりすると、お見舞いを出したりします。どこかのお線香屋さんの喪中見舞いCMにのせられているわけではないけれど。

お見舞いの気持ちを伝えるのは、こちらとしてはさぞかし辛い思いをしただろうと相手を慮ってのことで、それは自分が親を亡くした時の辛い経験からそう思うわけです。でも親子の関係性はそれぞれ違うから、私の「思いやり」はひょっとしたら、見当はずれだったりするかもしれません。親が亡くなってどこかほっとしたという気持ちを持つ人だっているはずですから。

そう考えると、親御さんを亡くした友人に何か声をかけたくなる私の気持ちは、結局自分の辛かった経験を思い出し、自分の気持ちを再確認したい思いが根底にあるのではないかなという気がします。

ひょっとしたらピアサポートでいわれる「共感」のしくみも似たようなものなのかもしれません。相手の思いに共感するということは、自分の思いを相手に重ね合わることで、自分の気持ちや思いを整理する営みなのかもと最近思います。

なにも私は、辛い思いをしているだろうと思われる人に声をかけることが、自己満足だと言おうとしているわけではありません。自分が親を亡くした時にいただいたお見舞いの言葉の数々は、心底嬉しかったし、すごく励まされたことを覚えています。たとえ何気ない言葉でも、心がこもっている言葉というものは、その気持ちが通じるものではないかと思います。

何はともあれ、心を込めて相手に言葉を伝えることは大事だし、私もそれができるような人になりたいと願っています。

(つぶやきびと:にしこ)






2021年12月3日金曜日

6日目 ピアという存在

今日のひと場面。仕事で採血をさせてもらいながら患者さんとお話をしていました。

どんなきっかけだったか、患者さんがおもむろに50年以上前に病気で亡くされたお子さんのお話をぽつりぽつりとしてくださいました。そのお子さんが体験された治療の話、そしてその患者さんがいまもそのお子さんとお茶やごはんを一緒にしているというお話を聞くにつけ、わたしはなんだか胸が詰まってしまって、涙がぼろぼろと出てしまったのでした。

先日も、15年以上前に亡くされたご家族のお話をしてくださった方と時間を持ちました。穏やかにやわらかに亡くされたご家族との思い出をお話しされるのを聞きながら、いまでもその方の中で生きておられる大事な方の姿をリアルに感じました。

わたしは4年前に亡くした自分の大切なひとをいつかは忘れてしまうのではないかというおそれを持っていましたが、その方達のお話を聞いていると、どんなに時間が経ってもちゃんと忘れずにその人の中で生きているのだということを教えられ、すごくありがたく思うとともに安心もしたのです。


そう、わたしは誰かが大切なひとを亡くした話を聞くと、自分の体験と同期してしまってこころが揺さぶられます。それはひとの話でも、本や映画やドラマでも。

でもでも、かやさんが先日書いておられたとおり「身近な人を亡くす」という事象は同じでも、おそらくその関係性や思いによってみんな違う体験のはず。そこは忘れてはいけませんね。


だからこそ、おなじことはもちろんだけれど、ちがうことも含めてその事象について語れることはありがたいなと思います。自分だけだと思っていたことが実は他の人も同じであったと発見して楽になることもあるでしょうし、ちがいを見つけて「そんな考え方もあるのか」と気づきを得ることもあるでしょう。その同じことや違いのあることについてただただ味わうこともできるし、「なんでなんだろうね」と深掘りすることもできるかもしれません。


生きていると、こうした喪失も含めて元通りにするのは難しいことが多くあります。経験はなかったことには出来ず、その人の人生に積み上がって進んでいくからです。本当だったらなかったことにしたいくらいの苦しい想いや経験もあるけれど、そこにいまいちど踏みとどまって、とまってしまった時間を一緒に過ごす勇気をもらったり、先に進める一歩を見せてくれるのが少し先を歩くピアという存在なのかもしれません。

今日の体験を経て、そんなことを考えました。

まとまりませんが、今日はここまで、です。


(つぶやきびと:みどりん)

2021年12月2日木曜日

5日目 今年のしっぷろと来年について

しっぷろアドベントBlogの5日目は、りえちんがお送りいたします~。


 

改めてですがもう12月なのですねー。びっくり・びっくり。皆様はどんな12月をお迎えでしょうか。私は年々クリスマスの飾りよりも、正月飾りの方に目がいきはじめて年齢を感じます。あとは、12/24が終わった翌日からのスーパーのお正月への舵の切り替えもなんだか日本ぽくて結構好きです。日本人にとってはクリスマスってイベントっていう感じが前面に出てしまい、翌日には「クリスマスはもう終わりで、次は正月だ!」というあの1ミリも未練がない感じが滑稽で好き。 

 

去年はこのピアスタッフについて知ってこ!ぷろじぇく(略:しっぷろ)とのWEBサイトをスタートさせた年でした。今年はどうだったかな。しっぷろの活動でいうと今年度はありがたいことに助成金を頂ける事となり(草の根市民基金・ぐらんさんより https://citizensfund-grand.org/)活動において出来る事が少し広がったかなと思っています。とはいえ、このコロナ禍の中であまり大がかりな事が出来ているわけでは無いのですが、それでも少しずつ色々なピアスタッフの方にお話を聞かせて頂いたり、原稿を寄せて頂いたりしていまして、少しずつWEBサイトに掲載している感じですかね。


このしっぷろのWEBサイトを使っての情報お届け活動以外にもやりたいことは実は色々あるのですが、なかなか手が回りません。それでも少しずつ地道にやりたい事ができる様になるための土をいま耕すようなことをしっぷろメンバーでやっている感じかなー。来年度は少しだけ範囲を広げてまずは、このサイトをもっと知って頂けるようにしたり、そもそものしっぷろ仲間(?)をもっと作っていきたいと密かに思っています。(ここに書いている時点で密かにでは無いけども)
 
あ、ちなみに小さく告知しますと来年度はオンライン講演会を何回かやる予定で考えています。そんなことを通じて、しっぷろ仲間?しっぷろ応援団?を増やしたいです。みなさまどうぞお力お貸しくださいね。頼りにしています!
 
(つぶやき人:りえちん)

2021年12月1日水曜日

4日目 心のけがに配慮した関わり

こんにちは。

このところ、心のけがに配慮した関わり(トラウマインフォームドケアといったり、トラウマインフォームドアプローチといったり)について勉強しています。


心のケガといっても、その元となった出来事や、その出来事からの影響の大きさは人によりさまざまで、軽々しく一言でいうのも違うんだろうなと思ったり。難しいです。

それから、心のケガやその影響を想像できるものと思ってしまうのも(それぞれの経験は皆違うので)違うだろうと思いつつ、でも、たとえば、大きな音にとてもびっくりする方がいるとか、予測できないことはこわく感じる人もいる、いきなり触れられるのは怖い人もいる、などを知ると、今後はそういったことに気をつけることができるなとも思います。

ただ、このこと、考えはじめると、自分がこれまでできていなかったこともすごく思い至ってしまったり、いろいろです。


こころのケガに配慮した関わり、たぶん、ピアサポートでも、ほかのどんな場面でも関係あることだと思いつつ、いやはや。うーん。

書くとすごく長くなっちゃうし、でもなんだかこの文章では伝わらないようにも思うけれど、まずは今のつぶやきを書いてみました。

つぶやき人:ゆっきぃ