2022年12月24日土曜日

最終回:一人で勝手にアナザースカイ~岩手編~

しっぷろメンバーでつないだアドベントブログも今日で最終日!
あっという間でした…

アナザースカイ、最後の地は岩手です!

私の岩手愛はどこから来ているんだろうというほど大きくて純粋な愛です。

 

宮沢賢治の銀河鉄道の夜が大好き(花巻ですね)、妖怪が大好き(遠野!)、ということもあるのですが‥‥。

今でも思い出すのは、小さいころに家族といった岩手旅行です。夕暮れが迫り、空が茜色に染まる中、雄大な山々が静かに佇み、星の瞬く闇に沈んでいく様子や、盛岡市内でゆったりとした川が流れ、まるで眠ったような静かな街並みと、空がどこまでも高い様子など、すべてが自分の心をつかんで離さないなあと思っています。

 

子供の頃は遠野のカッパ淵も河童がそのうち現れるんじゃないかと思っていました。そういえば林の中にちらっと緑色が見えたような‥?

今思えば、物語のある土地に強烈に惹かれる自分がいるように思います。

宮沢賢治のイギリス海岸を歩くと、ここで昔過ごしたであろう人の空気が今も流れているように感じるというか…そんな気持ちを味わいたくて、私は旅に出ます。

 

さて、仕事に翻ると、私はやはり皆さんの物語を教えてもらいたいなあと思います。これまでどのような道を歩まれたのか、今どんな景色が見えているのか。

その中に少しでも自分と同じものを感じたとき、やはり私も嬉しいのです。決して同じ物語ではないけれど、どこか知らない土地で出会えて、ちょっと挨拶ができてうれしい、というような。

 

今日はクリスマスイブですね。皆様はどんな物語がありますか。

(私が思い出すのは、未だに持っているピーターラビットの絵本です。サンタさんからのプレゼントでしたが、望んだものではなく、ちょっとがっかりした思い出です。)

 

皆様にとって、今年、また来年の物語が良きものでありますように。そしてまたこのしっぷろで皆様と微笑みあえる時間があると嬉しいです。

 

それでは皆さま、メリークリスマス!


               数日前の雨上がりの空です。


(つぶやきびと:えみ)

2022年12月23日金曜日

27日目:「いいよ」と言ってくれる声 〜BMSGへの想いと共に〜

およそ10年前に学びを共にした友人4人と定期的に連絡を取り合っています。

コロナが流行するまでは集まって勉強会をひらいたり、ご飯を食べたり、一緒に温泉に行ったりしていました。今でもオンラインでの勉強会や情報交換会は続いていて、先日もクリスマスパーティーをしたところです。バックグラウンドも関心領域も異なっている彼女たちとの共通項は看護学だけなのに、とても貴重で素敵な繋がりです。

そんな仲間のおひとりから、BMSGという会社とその社長である日高光啓さん(SKY-HI)さんのことを教えてもらったのはこの夏のこと。BMSGとは、2020年に設立された日本の音楽事務所。Be My Self Groupという頭文字をとったもので、アーティストが「自分のまま」いられる空間をつくり、才能を才能として輝かせる場をつくり、日本の音楽シーンに新しいカルチャーを作りたいという社長の理念から生まれています。社長が1億円もの私財を投じて行ったTHE FIRSTというオーディションから生まれたBE:FIRST(ビーファースト)というグループをはじめ、いまやBMSGには所属アーティストやトレーニーが15人以上。全員が音楽を楽しんで追求していく姿が本当に美しくて、私もすっかりとハマって(沼って)しまいました。

何がどう美しいのかというと、それは彼らが本当にありのままで、愛にあふれているから。音楽が大好きで、パフォーマンスの際には歌もダンスも魂がこもっているけれど、ふだんはわちゃわちゃしつつ互いをリスペクトし合う彼ら、すごく自然体で楽しそうなんですよね。

この会社のビジョンには、

上り詰める、だけど蹴落とさない。

媚びない、だけど誰も否定しない。

自分である、だから人を愛する

とあります。わたしも、蹴落とさない否定しない世界や関係性を探りたい。自分も人も愛せる場所にいたいと思う。でもそれって日常難しい。それでも彼らはそれを体現しようとしてくれていて、その空気感を届けてくれるので、すごくエンパワーされるんです。そして、ありのままのあなたでいいよ、って言ってくれているみたいな気持ちになるんです。

彼らを応援するのに付随しているもう一つの楽しみは、この想いについて語ること。これを教えてくれたMさんとは、この夏以降いろんな感情と経験を共にしてきて、それがすごく自分を支えてくれました。自分の好きを語るのは、怖いことでもあります。馬鹿にされるんじゃないか、否定されるんじゃないか、わかってもらえないんじゃないか…。今までそんな思いはいろんな場でしてきました。でもそれを理解してくれて、観点が違っていたとしても面白いねと言い合える関係値。同じものを見て心を動かしているひとがそこにいること。これにはすごく支えられました。このお方からも、「ありのままのあなたでいいよ」をもらって支えてもらってきました。


相手からもらう「いいよ」の蓄積は、自分で自分に言う「いいよ」を授けてくれます。そして自分で自分に言う「いいよ」は、生きていく上で大事な底力のひとつになっている気がします。

自分はもうダメだと思ったり、自分を信じられなくなることってある。そしてどんなに「大丈夫」と言い聞かせても「もうだめだ」がぐるぐるして止まらない時がある。それでも、ひとりでも、わたしのことを「いいよ」という声を思い出せたら、少し息ができる気がするんです。

そんな声を持ち寄ってくれる仲間を、大事にしていきたいと思います。


 ※BE:FIRSTはレコード大賞にも紅白にも出ます。要チェックです♪

 ※写真は素敵な方から頂いたクリスマスのギフトです。

(つぶやきびと:みどりん)





2022年12月22日木曜日

26日目:共にいること

木曜のブログ担当、りえちんです~。
夜、週末にケーキを作ろうとおもってスーパーに苺を見に行ったのですが、高すぎてひるんで買わずに(買えずに…だな)帰ってきてしまいました…。明日は買いに行く前にお腹に力を入れて行きたいと思います。
 
さて、今日のブログテーマを「共にいること」としてみました。
自らの経験としても、目の前の人や友人、仲間などと「共にいる」ということから、ピアサポートの関係や、大切な何かにふれた方も多いのではないでしょうか。

そして共にいるなかで、嬉しい気持ちを分かち合ったり、共感しあったり、励まし合ったり、慰めあったり…、そんな風なことがまさにピアサポート的な感じがしますよね。こんな風な共感や励まし合いってお互いにとっても心地よい感覚を得やすいですもんね。そして、このような所に魅力を感じて、ピアスタッフやピアサポーターの仕事や活動をされているかも沢山いらっしゃるのだろうと感じます。
 
一方で、目の前の人や友人、仲間などと、共感しあえないことや、分かり合えない経験にも日常的に出会いますよね。分かり合えないことから、自分が押し黙ってしまうこともあれば、目の前の相手とどんどん心の距離が開いていくように感じることだってあるかも知れないですね。この間はすごくいい感じだったのに、今日はなんか変な感じになっちゃった…とかも。

けれども、お互いにとっての心地よい時に「共にいる」ことを越えて、いまひとつなんだか変な緊張関係が生まれてしまったり、なんだかスッキリしない気持ちが生じてしまったときでも「共にいる」ことができるとしたら、それはとても素敵だなと思うのです。お互いに押し黙ってしまうときもあるかもしれないけれど、でも共にいることは大事にし合えると言いますか。

通じ合えるから共にいることも素敵。
だけれども、通じ合えないときでも、互いを尊重しあい、目の前にいることを承認しあえる関係。

お互いの間に流れる空気が少し停滞してしまうときでも、それを一緒に眺められる様な関係や、再び動き出すことを眺められるのだとしたら、素敵だなーって。
 
まとまりませんが、本日はここまで~。

(つぶやき人:りえちん)







2022年12月21日水曜日

25日目:どうぞのいす

こんにちは!にしこです。


私の好きな本の一冊に「どうぞのいす」という絵本があります。


お話はこんな感じ。



うさぎさんが小さないすを作ります。

「どこへおこうかな」

うさぎさんはできたいすを

大きな木の下に置きます。

「どうぞのいす」という立札も。

そこへ、ろばさんがやってきて、

どうぞのいすを見つけます。

「おや、なんてしんせつないすだろう」

ろばさんは座る代わりに、

拾ってきたどんぐりが入ったかごを

いすに置いて昼寝を始めてしまいます。

そこへ、くまさん、きつねさん、りすさん

かわるがわる動物たちがやってきて...




このお話で繰り返し使われるのは、「どうぞ」という言葉と「おきのどく」という言葉です。


最初に「どうぞ」の立札を立てたのはうさぎさんですが、その「どうぞ」の立札をどう見るかは、やってくる動物によって少しずつ違います。「どうぞ」の受け取り方はそれぞれでも「あとのひとにおきのどく」という言葉で、見知らぬ誰かへの思いやりの気持ちがつながっていきます。



先月の朝日新聞朝刊に作者の香山美子さんのインタビューが載っていました。


「うさぎさんは誰かが座るかもしれないと思っていすを置いたかもしれないけれど、最初に見つけたろばさんはいすの上に荷物を置いてしまう。「どうぞ」の目的が変わったと読む人がいるかもしれませんが、「どうぞ」の言葉の意味そのものは変わっていないんです。」


「「どうぞ」って、誰かに何かをしてあげる時の言葉であり、誘う時の言葉でもある。自分以外の人に対する思いやりの大切さを込めました。「二つあったら一つはあなたにあげよう」という単純な心を伝えたかったんです。」


(11月28日(月)  朝日新聞朝刊)



「どうぞ」がつながっていくところが、読み手をなんとも楽しく、優しく、温かい気持ちにさせてくれます。「どうぞ」の気持ち、忘れがちですが大切にしたいなあと思います。


もう一つ素敵なところは、「どうぞのいす」の短いしっぽ。うさぎさんが、自分が作ったしるしにつけたのです。


もう40年も読み継がれているらしいのですが、なんとも温かい絵本です。



ではまた!




「どうぞのいす」作:香山美子、絵:柿本幸造 株式会社ひさかたチャイルド 1981


(つぶやきびと:にしこ)











2022年12月20日火曜日

24日目 人としているというだけでいいんだろうな

 

とても腰が痛くて、困った、またぎっくり腰になりそうだ、、、、と思っていたときに、こちらのお寺の近くへ行く機会がありました。一度行ってみたいと思っていたお寺だったので、仕事帰りに立ち寄って。お参りしてすぐに帰るつもりだったのだけれど、裏山のようなところがあって、歩いて回れることがわかり。仕事着で、パソコンやらいろんなものを背負ったまま歩き始め、山(というか丘)の中を歩くこと1時間。

あんなにバリバリになってしまっていた背中や腰を含め、身体がとても楽になっておりました。日ごろ、肩や背中にすごく力が入ってしまってるんですね。土の上を歩くこと、どこかへ行くためでなく歩くこと、久しぶりだけど気持ちいいなー、とか。

もっと気の利いた反応ができたんじゃないか、もっと勇気を出してこんな風にもできたのではないか、あんなこと言わなければよかったのではないか、私ではない別の人だったらもっと良い感じでできたのではないか、などなど毎日いろんな思いが出てきますが、たまにこうして自然の中を歩いたりすると、毎日最高の自分でいる必要もないと気づくことができたりします。そして、ただその時その時にその瞬間を受け取って、感じていられる自分でいたいなぁと何やら思いました。

ピアサポートも含め、人との関係って、大切にしたいけれど、毎回最高のやりとりをできたり気の利いた何かを提供できたりするわけでもないと思うんです。それで勝手に落ち込んだりするんだけど、でも、考えてみると、相手はたぶん、最高の何かなんて求めてないですしねぇ。

人がそこにいるということだけで、とても尊いことなんですよね。

まとまりのないままですが。

つぶやきびと:ゆっきぃ



2022年12月19日月曜日

23日目:制約のあるなかでコントロールを手放す。と書きつつ、締め切りをコントロールできていないっ。

またもや1日飛ばしてしまいました。かやでございます。 夜に着の身着のまま寝てしまっておりました、余裕なく過ごしていてアカンですね。
着の身着のまま寝るのは日常ではあるのですが……。 週末は他県の障害者ピアサポート研修に関わっておりました。
久しぶりにグループワークに基礎研修の2日間ご一緒させていただきました。
自分にとっても刺激があり学びがあり、よい時間を過ごせました。 その後も、WRAPのようなワークショップを職場でやりました。
初対面の人も多くいるなかで、無理のない自己開示があったり、尊重しあう場面があったり、
これまた心地よい時間を過ごせました。 グループの場に参加してみて、あらためて感じたことなのですが、参加者であったり、
目の前の人に対して、ああしよう、こうしよう、というコントロールを手放すことで、結果的に安心感がもたらされることがあって、いい感じの場になることがある、
ということです。

そのような経験はもちろん今までもあるのですが、やっぱりそうだよねぇと実感したのでした。 分かりやすい例でいえば、話が長い人がいたときに、
相手の話を止めようという意図で関わると思ったとおりにならないし、さて、どうしたものだろうか?というこちがが困った姿勢のほうが意図せず
よい方向に動きだすような経験をしたのでした。

もちろん、話が長い人がいると心配にもなったりときにイライラしたりもするので、
むしろ自分の感情に対する手綱を握ることが大事になるかもですが。 また、これは気づきでしたが、制約があるほうが、
じつはお互いを尊重できるかもしれない、ということです。

例えば、自分は○○な症状があるので、○○は難しいです、というような自己開示があると、
その症状だけでなくて、同じように別の症状がある人があるかもしれないと配慮した
言い方になったり、その場の誰かへの配慮があると、自分も配慮されるかも、意見を言っても大丈夫かもという安心感が生まれるのかなぁなどと考えたりしました。

制約があることで、その場に尊重したい軸、見えない道がおぼろげに浮かびあがるのでしょう。
制約があるから○○な配慮をしましょうとコントロールをするよりも、
尊重したい軸を浮かんでくるような投げかけが好ましいのかもしれません。
そんなことをふりかえりました。

2022年12月18日日曜日

22日目:ピアサポートが育まれる場

 こんばんは!ながおかもんです。
年末が近づいてきたり雪が降ったりで、ちょっとだけパワーがレスっています😐
楽しいこともあったり大変なこともあったりバタバタする中で、レスったのかもしれないですね。

さて、

自分の好きなことに触れると心の健康には良いと言われたりします。好きなものがたくさんあると良いよ、ということはよく言われることですよね。
というものの、好きなものってなんだっけ?という時期もないですか?私は今そんな感じです。好きだったものを集めてみても、なんとなく味気ない。自分が本当に好きなことってなんだったっけ?それを忘れてしまっている状況がまずしんどいのかもなぁと思います。

でも、時々、心の中でスタンディングオベーションが起きるものに出会ったりするので、好き好き感度が落ちていても、しっかり反応はするんだなぁと思ってみたり。

で、昨日気づいたのですが、私は「ピアサポートが育まれる場」がとてもとても好きなんです。自分自身がピアサポートされることも大切なんですけど、ピアサポートが育まれる場そのものがすごく好き。それが私なんだなぁと思い出しました。

ここ数年はそういう現場からはすっかり遠ざかっていていました。これがパワーがレスな原因なのだろうか。

好きなことをする、のであれば、ピアサポートが育まれる場に関わっていたい。
何か動いてみようかな。

今週末はクリスマス!

2022年12月17日土曜日

21日目:一人で勝手にアナザースカイ~四国編~

 

私のアナザースカイ、第二弾は四国です!

 

四国は2回、行ったことがあるのですが、思い出すのは大学時代の四国です。

そのころ、青春18きっぷにはまっていた私は、単身船で四国にわたり、そこから四国ぐるっと一周旅を計画しました。


時間の関係で全てをじっくり、というわけではなかったのですが、絶対にやりたい!と思っていた香川のうどん巡り(香川のうどんは本当においしいですね!早くて安くて素晴らしい。トッピングも多くて、目移りしてしまいます)、愛媛松山市の道後温泉(とても素敵でした~座敷でゆったり過ごすのが最高でした)、などなど、魅力も盛沢山だったのですが、

 

未だ、20年たっても忘れられないのが、車窓に広がる、美しい緑と青い空の光景です。ここは日本か、と思ってしまうほどの美しさで、言葉を忘れるほどでした。

うまく説明できないのですが、すべての世界が美しい森で構成されて
いるような錯覚に陥る、想像の世界にいるかと思うほどの美しさ、というのでしょうか…緑をかき分けながら進む電車の車窓から見えた景色の美しさは今でも目に焼き付いています。

 

その後の四国訪問は徳島だったのですが、時間が限られており、徳島ラーメンを食べて終わってしまいました(´;ω;)。残念…。

 

是非また時間ができたら、四国一周旅をしたいなあと思っています。

若いときの自分とはまた違った気持ちを持つのではないか、とドキドキしつつ、楽しみにしています。

            曇り空に飛行機雲が一筋走っていました

(つぶやきびと:えみ)

2022年12月16日金曜日

20日目:地道に一歩一歩。

 アドベントブログももう20日目。

メンバーそれぞれの思考やスタンスが透けて見えるブログは読んでいて面白いですね。

しっぷろはメンバーがちょうど7人いるので各曜日を各人が分担しており、わたしは金曜日の担当というわけですが、そんな金曜日もあと11分で終わろうとしています。(そしてウンウン唸って書いていたら過ぎてしまいました;;)


先日、SERLA(特定非営利活動法人 免疫・膠原病に関する支援・教育・研究のためのネットワーク)さんの「ピアサポートについて考える」というワークショップに、しっぷろメンバーのにしこさんと一緒に参加してきました。ピアサポートについて研究をされておられる伊藤智樹先生のお話をもとに、膠原病をお持ちである方々などがそれぞれにピアサポートとの出会いやいまなさっている活動について伺いました。

実際にピアサポート活動として場を作っておられる方のお話では、同じ体験を持つ人と安心して繋がれる「場」の重要性と、その場へのアクセスしやすさ、そういう場やいろんなひとが共存できる「社会」があることの必要性について触れられていたように思います。コロナ禍によって対面での「場」の交流が難しいことから、SNSを通しての交流も増えたメリットとデメリットについても改めて考えさせられました。

やさしい社会をつくっていくことは、ひとりでできるものでもないし一朝一夕にできることでもありません。でも自分の身近なところからでも目指す世界を広げていけたら、少しずつ変わるのかもしれないとおもっています。理想論かもしれないけれど、地道に、一歩一歩。

わたしにとっての一歩として、こうしてワークショップに参加することは大きなものでした。膠原病については、身内がかかっていたものの全くわかっていないことばかりでした。わからないことって距離ができてしまってよりより傍観者になりがちなのですけれど、そう言うスタンスがまわりまわって偏見を生むのだとも思います。知らないことを知っていく、知ろうとすることをやめない、そんな一歩を歩みたいと思います。

(つぶやきびと:みどりん)


2022年12月15日木曜日

19日目:時に一歩下がってみること

 なんと来週はもうクリスマスなのですね、はやい…。

さて今日は何を書きましょうか。前回は、身近なピアサポートについて書きました。なので、今日はお仕事的な意味あいでのことに少し触れてみようかなと思います。


私自身の病気になってからのピアサポート体験という意味では、デイケアに行きはじめた当初のことをよく思い返します。何もかも失って(当時はそんな気持ちでした)家にずっと引きこもり、外出は通院のみ。そんな生活をしていたところに「うちにもデイケアできるよ」と主治医に言われて、よくわからないけど行ってみたんですね。

でも行ってみて驚きました。こんな惨めなのは自分だけだ、と心の中で思っていたけど、そこには笑顔でおしゃべりしている同じような年齢の子たちが沢山居たのですね。なんだかスッと肩の力が抜けたことを覚えています。そこからデイケアの仲間と仲良くなって、デイケアが終わってからは、いつもみんなで近くのお店でお茶会していました。(その思い出のお店はもう閉店してしまったのが悲しいけれど)きっと似たような体験をされている方、いらっしゃるんじゃないかな?^^ そんなことを思い返すときに、ふと思うことがあります。

  

ピアスタッフやピアサポーターとして、利用者さんや患者さんと関わらせて頂くときに、もし利用者さん同士がよい関係や、素敵なやりとりをされている時には、すっと一歩下がってみること(関わりを遠慮してみること、保留してみること)なんかも上手に混ぜながら、働くことができたらいいなぁって。


一歩下がった時に、利用者さん同士が素敵なやりとりをされているのであれば、わざわざ割って入らなくてもいいですよね。つまり、その人達同士のピアサポート関係をそっと応援することも大事だなぁって。

入職したばかりの頃は特に、「何かしないと」感に押されてしまうことがあると思うのですが、ときにパワーセーブモードで働くことが余白を生んで、良いように作用する場合もきっとあるなと思うんですね。もちろん仕事という意味では「ON」でありつつもパワーセーブモードといいますか。


そのあたりも、また他のピアスタッフやピアサポーターの方とお話を重ねていきたいなと思っています。来年や再来年(再来年はさすがに先過ぎる!?)には、しっぷろでもピアスタッフやピアサポーター同士での継続的なお話会みたいなとをやりたいな~とひそやかにたくらみ中です。


では今夜はこのへんで。

(つぶやき人:りえちん)





2022年12月14日水曜日

18日目:「禁じ手」の経験談

こんにちは!にしこです。

このところ、ピアスタッフの方が集まる場に参加させていただく機会が多くあります。そこで語られるさまざまな経験のお話にいつも感動します。ピアスタッフは「経験による専門家」で、その経験はきく人に、勇気や希望、生きていく力を与えるものだなあとつくづく実感しています。 


でもですね、最近私は、誰かとの対話においては、経験に基づく話でも「禁じ手」ともいうべき経験談があるのではないかと思っています。それは「分かり合えないことを前提とした経験談」です。

 

具体的には「あなたは経験していないからわからないだろうけれども」とか、「あなたは経験が浅いからまだわからないだろうけど」といった文脈で語られる経験談です。


例えばそれは、

「あなたは入院の経験がないからわからないだろうけど、私はね...

「あなたはこの病気の経験がないからわからないだろうけど、私はね...

「あなたは結婚していないからわからないだろうけど、私はね...」 

などなどでしょうか。


経験に基づく話も、「あなたは経験していないからわからない」という前提で話してしまうと、相手は黙るしかなくなってしまうわけです。そうなると、お互いの間に断絶が生まれてしまうし、そこにピアサポートや対話が入る余地は無くなってしまいますよね。

 


なぜこんな話をするかというと、最近、私自身が苦い失敗体験をしたからです。


それは大学院のゼミでのこと。就労支援のあり方みたいな話になって、議論が白熱した時に、私はつい、「企業に勤めた私の経験から言って...」と発言してしまいました。つまり、「福祉現場のあなた方は企業勤めの経験がないからわからないだろうけど」という文脈で相手の言説を封じ込めてしまったわけです。こうなると、相手は黙るしかないですよね。しまった!と思っても後の祭り。自分の発言を思い起こすと、とても苦々しく、そして恥ずかしい気持ちでいっぱいです。

 


こういうの「経験の権威化」とでも言ったらいいのでしょうか。経験談は、ややもすると暴力的にすらなるんだなあ、とつくづく思い知りました。とはいえ、失敗から学ぶことが大事です。今後の戒めにして、同じ轍(てつ)を踏まないようにしたいと思います。

 

ではまた!

 

つぶやきびと:にしこ




2022年12月13日火曜日

17日目:人として出会う

先日、ある講座(リカバリーカレッジの講座)に参加して、とても新鮮で楽しい経験をしました。

自分にとって意味のあるもの(自分の人生を有意義にさせるだったかも。)の写真(その講座では、ミーニングフル・フォトと呼んでいました)を一週間で9-12枚撮影してきて、それらについてほかの人に紹介してもいい人は、ほかの受講者に見せながら話す、というワークです。

これが自分にとって、とても楽しくて発見の多い時間だったのです。

自分についての気づきがあったのはもちろんなのですが、私にとっては、それより何より、ほかの人の撮った写真を見せてもらってその人のお話を聴いたことが、すごく良い時間だったんです。

知らない人(同じ受講者だというだけで、知り合いではない人)だったとしても、その人の大切なものだったり、自分にとって意味があるものやこと、人について話してくれるのを聞いているだけで、その人にぐっと引きこまれる感覚があり。

もともと知り合いだった人についても、その人が日常の中でいいなと思った場面の写真などを見せてもらってお話をきくことで、そういうことに幸せを見出したりしているのですね!と、それまで知らなかった一面を知ったり。

話してくれた人と、人として出会えた感じがしたのでした。

これは、これまでの「相手を知る」とはなんだか違うぞ?と思って考えました。

よく、精神保健の支援においては、その人の力や強み(ストレングス)を知って、そこを大事にしましょう、と言うし、それはとても大切なことと思いつつ、誰かの力とか強みを「情報」として知っても、その人のことを知ったという感覚をあまり持てないこともけっこうあることを思い出しました。

情報としてその人のことを知るのと、その人にとって意味あることをその人の言葉で話してもらうのでは、全然違うんですね。言葉にすると簡単なのですが、これを実感として感じたのでした。

ピアスタッフも含め、支援の仕事って、情報として誰かのことを知ることが増えてしまう面があると思うのですが、人として出会うということを毎回していけたら、相手に抱く感覚や関係性がもっともっと人間らしいものになるのではないか、そんな風になれたらいいな、とこの体験から感じました。

つぶやきびと:ゆっきぃ



2022年12月12日月曜日

16日目:ピアサポート、かみあわないもの

月曜担当のかやです。みごとにすっぽかしてしまいました。すみません><

忙しく余裕がないのもありますし、サッカーW杯にちょっとしたトラウマがあり、体調がよくありません。その昔にサポーターに囲まれて怖い思いをしたこともあって、W杯の時期は緊張しながら過ごしていることが多いです。今季、久しぶりにパニック発作が起きて、なかなか治らないものだと痛感しました。なにしろサッカーの話題から遠ざかって生活することがなかなか難しい。いやはや。


パニック発作のしんどいところは発作自体ももちろんのこと、再び発作になったら、、、という予期不安でしょう。再び発作が起きたら?という怖さは、なかなか経験してみないと分かりづらいものだなぁと思います。似たような経験をしていることで、想像力を働かせやすく、理解や共感しやすいことはあるだろうなぁと思います。よくあるピアサポートの特徴というか効果ですね。


一方で、同じような経験をしているからといって、相手のことを想像しやすいことは全くない、ピアスタッフにとって経験ではなくて当事者という立場が大事なのだ、というピアスタッフも知っています。確かにそこも大事です。


ピアスタッフのよりどころが、経験に根ざす者か、立場に依る者かの主張は、どちらも間違っていないでしょう。でも、間違っていないからどちらも正しいではなくて、どちらをより大事にしたいかは、それぞれ主張する人の思い、意思なんだろうとも思います。


私が今の仕事をはじめた頃は、(少なくとも私の地元では)ピアスタッフには期待もありつつ、専門職と一緒に仕事をすることへの抵抗感や不信感の方が強かったように感じています。ある方からは、専門職と協働して支援するような活動をピアサポートと呼ばないでほしいと言われたこともありました。その後の世相の変化は大きいもので、今では加算になるまでにピアスタッフが注目されるようになりました。


いろいろな人のピアサポートへの思いがせめぎ合い、ぶつかるのでしょうね。だから、かみ合わない。もっと言えば、どんな活動をピアサポートとしたいのか、という意思のあらわれだと感じています。ピアサポートの根底は同じだと信じたいところですが、あやしいかもしれないですよね。それは、どんな人とつながりたいか、気持ちをシェアしたいか、を問うているように思います。


個人的には、パニック発作の予期不安について誰かと話し合えるといい気分になることがあります。人には共感されにくいことを、共感してもらえると素直に安心するし、希望が持てます。



2022年12月11日日曜日

15日目 :正しさのベクトルの隙間

 こんばんは。ながおかもんです。
アドベント3週目に入りましたね。ブログの担当も3周目となりました。

先週は心奪われたyoutubeチャンネルについてご紹介しました。「心奪われる」とはわりと綺麗に表現させてもらっていて、自分の中で「これは素晴らしい!」の最上級表現は、「心の中でスタンディングオベーション」です。自分の中の全部が総動員されて、スコールのような拍手、指笛、そしてブラボー!の声、そんな感じです。


今回も私の心の中でスタンディングオベーションが起きた作品をご紹介したいと思います。
映画「護られなかった者たちへ」(瀬々敬久監督、2021年公開、配給:松竹、主演:佐藤健、阿部寛、清原香耶)です。
東日本大震災直後の宮城県(おそらく石巻市か気仙沼とか海沿いの街)が舞台となっていて、さらにそこから10年後に仙台で発生した殺人事件から物語が始まります。登場人物がそれぞれ被災という痛みを抱えながら生きていて、生活保護の問題もこの映画においては大きなテーマとなっています。


詳細はネタバレになるので控えますが、置かれている立場によってそれぞれの正しさのベクトルがちょっとずつズレていってこぼれ落ちる人がいる。正しさが合理化を産んでそこからこぼれていく人たちがいることをとても深く、深く考えさせられました。そして、正義は人を救うし、あるところでは人を深く傷付けたり、正義によって取りこぼされたものは取り返しのつかないことになることになり得るのではないかと考えます。人を助けることを生業にする以上、自分が翳した正義や正しさの影になってしまった事柄について、抱えていく必要があるんじゃないかということを考えました。

何が正しいとか誰が悪いとはそういう一義的なものを考えたのではなくて、それぞれがその時の正しさで生きていて、それがどういうことになるのかということを考えさせられた映画でした。


舞台が仙台市の「若葉区」となっていて、あきらかに「若林区」と「青葉区」を合わせたものだなということがわかるのですが、若林区で10数年働いていた私としては、そこも愛着ポイントでした。


なかなか重たい映画ですが、興味を持たれた方は是非!


ちなみに私はこの映画を見てから、佐藤健くんと清原果耶ちゃんから目が離せません👀


アドベント3週目です🎅


2022年12月10日土曜日

14日目:一人で勝手にアナザースカイ~福島編~

 

1つ目のアナザースカイ、大学から就職まで過ごした私の思い出の地、福島です!

 

大学入試の時、緊張で縮こまる中、大学の窓から見えた透き通るような青い空と美しい山並みは今でも忘れられません。

そこから私の福島愛が始まりました。

福島は浜通り、中通り、会津と3か所に分かれ、都会の中通り、海が楽しい浜通り、歴史と美しい自然あふれる会津、とそれぞれ違った魅力があります。

2010年に就職のために福島を離れた私にとって、2011年の東日本大震災は、自分がお世話になった、大事な方々を失ってしまうのではないか、という恐怖をもたらすものでした。

その後、しばらく浜通りや会津の病院に定期的にお伺いする機会を持たせていただき、当直をしたり、訪問診療チームに入れていただいたりしました。皆様の温かな歓迎に、私自身が温められるような体験でした。

 

その後、仕事などが忙しくなり、中々福島を訪れることができなかったのですが、今年の夏、ようやく念願の福島に行くことができました。

中通り、会津、浜通りを23日でめぐる、という強行軍を最初は予定していましたが、移動距離で断念。中通りでは大学や大学生時代に住んでいたアパートをめぐり、大好きだった喫茶店に行き、大学時代友人といった観光地に行き、なくなってしまった店を惜しみ(トロビール、と呼ばれる美味しい料理が失われてしまった…)、2日目は浜通りに行き、おいしいジャガイモ料理(なぜか海産物ではない)を食べ、海を間近に見てきました。

道を走っているときに間近に迫る木々や、広い空を見て、自分の成分が何からできているんだろう?ということをじっくりと思い出す旅でした。

今でもたまに福島の空を思い出して、恋焦がれる日々です。

今頃は雪も降っていますでしょうか。

福島の皆様、今度福島の空の下でお会いできると嬉しいです(*^^*)

 

          
     家の近くの大型施設が取り壊されたら広い空が見えてびっくりしました

(つぶやきびと:えみ)

 

2022年12月9日金曜日

13日目:自分の器

 ある一定以上の温度にならないとどうしても動けないことに気づいたみどりんです。

そんな時は、暖房をつけて暖かいものにくるまって動き出せるまでじっと待ちます。前は無理して動こうとしていたけれどそれは辛いばかり。いろんな意味で「自分の身の丈を知る」ことの大切さを感じています。じっとしているのは無駄な時間を過ごしているようで、結局のところエネルギー消費を最小に抑えて次に動くために蓄えているのです。自覚して、待つことを覚えました。


さて。

ひととの関わりって、すごく弾力がありますよね。タイミングやコンディションによって、ぐぐっと近づくこともあるし、付かず離れずのときもあるし、割と姿が見えないなぁってくらい離れてしまうこともある。そういうのは、出来ればナチュラルで自然発生的だといいですよね。むりしてしまうと、それこそすごくエネルギーをつかう。

ちょぴっと苦手なひととなんとかうまくやろうとガンバルことで疲れちゃうのもそうだし、ぐぐっと近づいた人との関係性がうれしくてガンバっているあまり、気づいたら自分らしくいられていないなぁと思うこともあります。

なかなか自分の思っているより自分の器って小さかったり浅かったりして、はみ出ちゃうものも色々あるみたいです。

そんな時、ついつい自分の器にため息をついてしまうけれど、どうせならこの小ささを嘆くより、自分の器の適正なサイズを知り、この器が生きるように磨いていきたいものです。

なんだか抽象的なお話しになってしまいました。

が、今日はそんなかんじがむりのないところみたいです。

(つぶやきびと:みどりん)


2022年12月8日木曜日

12日目:ピアサポートはとっても身近

 肩と背中がバキバキのりえちんです。


さて、お互いさまの関係って、日常生活のなかで本当に沢山ありますよね。または、お互いではなくても、恩送り的なこととか。(※恩送りって、多分助けてくれた人に直接なんらかお返し的なことをするのではなく、別の人に助けてくれたバトンを渡していく…ことだったような…)


○○について困っている時などに、相手が察してくれたり。もしくは○○について直接聞いてもらったり。そんな風に自分の困りごとや気がかりについて、「そうだよねぇ、困るよねぇ」とか「わたしもそういうことあったよ」とか何気ない一言に、気持ちが楽になることってよくあるなーと。さりげない応援の気持ちを示してくれるとかもそうかな。

 

そして、つい昨日、背中や肩がバキバキの私を見通してくれたのか、お役立ち情報を送ってくれた職場の方がいまして、驚いたと同時に、ナイスタイミング過ぎて感激したのでした。このことがピアサポートなのかどうか、わからないけど。でもそれがピアサポートじゃなくても別に構わなくて、なんというか関係性のなかに暖かくて優しい気持ちがやり取り出来たことがとてもうれしいのと感謝だなーと思ったのでした。


そして、こんな風な心がホワァっと暖かくなるようなやりとりを重ねられる人と、大切に関係性を築いていきたいなぁとか、余裕が無くなってしまう時もあるけど、でもなるべくそんな風でいたいなぁと思ったのでした。


(つぶやき人 りえちん)

2022年12月7日水曜日

11日目:福岡訪問記 〜 第10回全国ピアスタッフの集いに参加して

 

こんにちは!にしこです。

 

先週末、123日(土) 〜 4日(日) の2日間、福岡にて、全国ピアスタッフの集いが開催されました。3年ぶりの対面開催(オンライン併用)ということで、私も福岡に行って参加してきました。対面で会えるのはいいですね。とてもとても楽しかったです。

 

1日目は、オープニング、実行委員長の磯田重行さんの素晴らしい開会の挨拶に大いに感動し、続く基調講演、相川章子先生のお話で多くを学ばせてもらいました。そのあとの分科会はどこにしようか迷ったけど、訪問看護ステーションReafさんの分科会に参加させてもらいました。訪問看護は、医療の枠組みで行われる支援ですが、ときに精神保健福祉士も参加することで、ソーシャルワークの視点も入れられたらより良いものになるだろうという学びをいただきました。

 

2日目の午前は「ピアスタッフだからこそできること」という分科会にパネリストとして参加しました。私は、研究活動から得た気づきとしての「ピアならでは」と、私なりに考えるピアスタッフの可能性について発表しました。緊張したけど、なんとか乗り切りました。

 

発表の中でピアスタッフの可能性の一つとして、利用者のトラウマに配慮したピアサポート、トラウマ・インフォームド・ピアサポートについてお話ししました。これについて、指定発言の方から「利用者のトラウマもだが、ピアスタッフ自身もトラウマを抱えている場合もある」という発言をいただきました。そこは私の盲点だったなあと気づきました。ピアスタッフが自身のトラウマを扱いつつ、利用者のトラウマにどう配慮するかというのはこれからのピアサポートワークの課題かなと思いました。

 

2日目の午後は今回の大会テーマ「何が楽しいのか?本当に楽しいのか?〜これからのピアスタッフとは」に沿ったシンポジウムでした。福岡で活躍するシンポジストの皆さんのお話は、本当に素晴らしかったです。福岡のピアスタッフの層の厚さに驚きました。

 

シンポジウムでは、ピアスタッフとして何が楽しいのかという話をたくさんもらいました。お話を聞かせてもらう中で、仕事として楽しいことももちろん大事だけど、その仕事に誇りを持てることも大事かなという感想を私は持ちました。また楽しさも誇りも持てなかったとしても、日々の仕事をコツコツ、それこそ何十年も積み上げることも尊いことかなと考えました。ピアスタッフがそんな職業になっていくことに期待したいと思いました。

 

集いを通じて、たくさんの方々と交流できたのが何よりも嬉しかったです。企画してくださった、福岡の実行委員の皆さん、お疲れさまでした。ありがとうございました。

 

帰りは福岡空港で、分科会をご一緒した方とお茶をしました。時を過ごして危うく飛行機に乗り遅れるところでした。飛行機が遅延したおかげで助かりました。危なかった!

 

ではまた!

 

つぶやきびと:にしこ



会場となった西南学院大学の一画です



2022年12月6日火曜日

10日目:わかってもらえたってどんな感じ?

誰のことも本当にわかることはできないし、誰にもわかってもらえなくていい、本当にわかってもらえることなんてない、と基本的には思っているのですが、たまに、なんだかわかってもらった感じを得てしまうことがあります。

そんなときの、心がほどけてしまった感覚。みなさんは経験ありますか?

わかってもらうことを期待していないときに、予想外にわかってもらってねぎらわれちゃったりすると、不覚にも涙が出てきちゃったり。

それと、私の場合、どんな苦しさの中にも、我ながら滑稽な部分があるのですが、わかってくれた感じの人とは、なんだかその経験のこっけいな部分を一緒にゲラゲラ笑えたり。

この、心が緩んじゃう感じ、ほどけちゃう感じは心地よいのだけれど、こんな感覚を相手に起こさせたいと思っても狙ってできるものではなくて。

でも、わかってもらえた感覚のときに起こりやすいとしたら、相手をわかろうとするってことが大事なのかな、と考えたり、わかってもらえた感覚とは、つまりは受け取られたという感覚なのではないか?と思い直したり。いずれにしても、相手の気持ちや言葉に関心を寄せるってことなのかな、と思ったりしています。

つぶやきびと:ゆっきぃ



2022年12月5日月曜日

9日目: 一本釣り 誰も使わないピアスタッフ用語集その弍

グッと冷え込むようになりました。我が家でも石油ストーブに載せた薬缶がシュンシュン鳴っております。こんな寒い日にはたい焼きをほおばると嬉しくなります。慌てて食べると熱々のあんこで火傷してしまうやつですね。

たい焼き好きな人の間では「天然もののたい焼き」、「養殖もののたい焼き」という言葉があります。一つの型で何匹も焼かれるたい焼きが「養殖物」。量産しやすい。一匹ずつの型を手で焼くものが「天然もの」。手間がかかり熟練の技が必要だとか。

個人的には、天然ものは皮がパリッと香ばしく、見かけるとついつい買ってしまいます。天然ものは昔から「一丁焼き」と呼ばれていたそうですが、「養殖もの」、「天然もの」という呼び方はユーモラスでもあり、人に蘊蓄を語りたくなります(ほら今も)。

「一本釣り」の言葉は、ピアスタッフ業界では、事業所の雇用主が利用者を職員として採用することを指す俗語です。一本釣りは、マグロとかカツオを獲るときの方法だと思いますが、人を採用する、リクルートする場面でよく使われるようで、どちらかといえば「引き抜く」という意味合いのようです。

利用者の集団の中から、この人は能力が高いとか使えそうだ(ピアサポートとの観点で良い人かどうかはさておき)と判断された1人を利用者から登用することが現実的に起きていることだと思われます。利用者を全員ピアスタッフとして採用することはあり得ないでしょうから、一本釣りなのでしょう。

原則として、自事業所の利用者を採用しないことが推奨されています。現実としてよくある話ですし、うまく行っている例もありますので、一律にダメだというわけではありません。その辺りは「障害者ピアサポート研修 専門研修テキスト」「ピアサポートの活用を促進するための事業者向けガイドライン」にて触れられているので興味がある方は紐解かれると良いでしょう。

一本釣りではなく、有能な?ピアスタッフがヘッドハンティングされるような業界になるのはいつのことでしょうね。





2022年12月4日日曜日

8日目:チャレンジとそれを支える人の姿勢

 こんばんは。ながおかもんです。

仙台では先日初雪が降りました⛄️。寒さがキンとなり冬が本格的に始まった感じです。(それなのに冬用コートをまだ出していない…マフラーはかろうじて…)

さて、最近気に入って見ているYouTubeチャンネルがあります。受験生が進学(主に大学)の資金を得るために受験内容や志望理由、将来のプランなどをプレゼンテーションして、事業家(主に塾経営者)が出資の可否を決めるという内容です。10代〜20代の若者がそれぞれの背景を持ちその中で進学をしたい理由について語る姿はとても心を奪われますし、今の若者の置かれている状況やそれに対する考え方なども知ることができて、視点がひらかれる思いです。

その中で、メンタル不調を抱える受験生が志願者で登場している回があります。彼らはメンタル不調や発達障害により大学進学や大学生活が頓挫した経験を経て、もう一度チャレンジしたいと志願しています。困難な経験を乗り越えて自身の病気や障害をオープンに語り、さらにその先の希望を語り、再起をかける様子はまさにリカバリーを歩む姿であり、その姿に心を打たれます。

さらに、私が心を奪われたのは、彼らに声をかける事業家の方達でした。印象的だったこととして、一つは「塾にもメンタル不調の生徒がくるのでこういう方に講師として働いてほしい」とメンタル不調の経験に対する好意的な声が多かったこと。もう一つ、とてもとてもハッとさせられたのが、塾経営者で医師でもある細井龍先生の「病気もあって思い切りやり切ることができなかったんですよね。ぜひ思い切りやりきってください。」との言葉でした。体調や再発を気遣う言葉もありましたが、病によりたくさんのことを断たれてきた志願者の真の想いを理解するこの発言は、何よりも本人を支持する言葉であり、心から心から感動しました。そしてきっとご本人も真の想いを理解してもらった経験がこれからの歩みの支えとなるのではないかと思います。

私はこの件で細井先生から目が離せなくなっているのですが👀、チャレンジを支える側の在り方についてすごく考えさせられています。よき支え手になりたいと思いつつも、容易なことではないなと日々感じています。それでも私自身も諦めずに、チャレンジの良き支え手になるよう精進していきます。


アドベント2週目です🎄

2022年12月3日土曜日

7日目:一人で勝手にアナザースカイ

 

昨日朝歩いていて、曇り空を眺めていたら、遠くでボオーッと汽笛のような音が響きました。近くに海があるわけでもないのに、でもその音が聞こえたことに特に不思議な気持ちを抱くわけでもなく…という体験は皆様にはありませんか()

 

季節ごとに思い出が積み重なり、ここまで来た年月が突然よみがえるような体験をすることがあります。夏の暑い日に小学校で過ごした一コマが思い出されたり、秋の空に漂う乾草のような香りをかいで、田舎で過ごしていた日々を思い出したり…

 

昨日、そんなことを思っていたら、天啓のように「そうだ!自分の大好きな土地について書こう!」と思い立ったので、私のパートでは「一人で勝手にアナザースカイ」を書きたいなあと思います。

私のアナザースカイは、懐かしくて、いつも思い出して、また行きたい、住みたいと思うような気持ちがぎゅっと詰まった場所、コロナ禍になり、中々移動が難しくなる中でも、恋しいなあと思うような場所です。

 

皆さま、どんどん冬らしくなってきましたが、今どちらで過ごされていますでしょうか?

しっぷろブログは全国から見てくださっているので、私のアナザースカイが皆様のお近くだったらなあと思いつつ…

 

それではこれから1224日まで、よろしくお願いします!



埼玉県から見えた富士山です

2022年12月2日金曜日

6日目:○○として定義づけられること

 こんばんは。

あっという間に12月が来ましたね。寒いのは苦手ですが、手首と足首を温めてなんとか気持ちを和らげています。

さて、今日わたしは、以前しっぷろで行っていた学習会についてもう一度振り返っていました。ImROCの「ピアサポートワーカー:理論と実践」の資料を用いてコアとなる原則について、意見交換をしていたことを思い出し、もうちょっとぐるぐるしたいと思ったためです。原則①「相互性」について取り扱った学習会の記録は、2021年11月3日のblogにもあがっています。学習会で使用した部分は、再度以下に引用させていただきます。

ImROCの「ピアサポートワーカー:理論と実践」

(5. Peer Support Workers: Theory and Practice)

https://imroc.org/resource/5-peer-support-workers-theory-and-practice/ 2022/12/2アクセス


コアとなる原則」①Mutuality(相互性)

サポートを与えたり得たりするピア達の経験は、決して同じではありません。しかし、精神保健施設で働くピアワーカーは、共に働く人々(※利用者さん・患者さんのことを指す)の経験の一部を共有しています。彼らは、共通のメンタルヘルスの課題、私たちの社会で「精神的な患者」として定義されることの意味、そして混乱、孤独、恐怖、そして結果として生じる可能性のある絶望について理解しています。


このなかで、今日のわたしは、「社会の中で『精神的な患者』として定義づけられることの意味」という部分が気になりました。

先日、地域のケア会議に参加をさせていただいた折、わたしは診療所の看護師という立場で参加をしました。その際、参加者の方との意見交換の中で、「病院には行きたくない」「行くと『患者』として扱われる」といったお言葉を聞いて、あぁ、そのように受け取られる一面も大いにあるだろうと自覚して反省した体験と重なったからかもしれません。

診療所の中にいると、わたしたちが出会うのは一面的に言えば「患者さん」ということになります。でもお話を伺えば、昔から踊りをやられている師範代の方もおられれば、日々学業とアルバイトをしながら生活されている方もいるし、毎日玄米や野菜にこだわりをもってご飯をつくられている女性も、学生から人気だった先生もいらっしゃる。それなのに、単なる「患者さん」というひとことに閉じ込めてしまっては、世界が狭いし色彩も広がらない。なによりも失礼なことです。

振り返ってみると、自分も、入院した時は本当に「患者さん」になっていました。白衣の人になんだ偉そうにと反発する気持ちと、でもそれは大声で言えない感じもあって、諦めみたいな気持ちが湧いてきます。

とはいえ、「わたしは○○だから」と勝手に自分についても定義づけしてそこで逃げちゃうこともあることにも気づきます。

なんで定義をするのだろうと考えると、楽なのだと思いました。「○○だから」としてしまうことで思考をそこでストップできるし、分類できれば話が早い。

でも、ひとはそんな簡単なものではないんですよね。それはひとの可能性や存在に対して失礼なことだと、改めて思います。自分自身にも、失礼なのだと思いました。


まずは明日の仕事も「患者さん」に会いに行かないで、その「ひと」に会いにいく。わたしも、「看護師として」そこに行くのではなくて、「わたし」としてそこに在りたい。

・・・ちょっと綺麗事すぎるかなぁ・・・。そんな思いもあるけれど、でも、ほんとに、そこは忘れたくないなと思います。

「相互性」という大きなところからは少しずれてしまうのですが、そんなことをぐるぐると考えた夜でした。

(つぶやき人:みどりん)


2022年12月1日木曜日

5日目:いるけどいない

 今日から12月ですね!

ここ2,3年、私の個人的な気になり事といいますか、関心事といいますか。

いわゆる精神的な困難や、それに伴う生きづらさを経験している(または、していた)人の中には、いわゆる精神障害当事者以外にも、今まさに働いておられる看護師、精神保健福祉士、心理士、医師…などのいわゆる医療や、または福祉の場での支援の担い手の方も沢山いらっしゃるよなぁ…、その方たちは日々の働きの中でどんなこと感じているのかなぁ…といったことが頭を巡ります。特に、精神保健領域で働いておられる上記の方たちのことがひそやかに気になっています。


なんというか、ピアスタッフやピアサポーターは、その立場性が精神的な困難を持ちながら生きているよ、ということを表明しているわけで、そこを自分が引き受けさえすれば自分自身の働き方の折り合いみたいなものは、ある程度つけ易い部分があるのではないかと思うのですね。

けれども、実は自分も精神科に通院しているよとか、過去に入院の経験もあったんだよ、という支援職の方ももちろんいらっしゃるわけで。そして、それを表明せずに精神保健領域で働くことは、きっと思うことが沢山あるだろうなぁと想像します。なお、そういう方が支援の担い手としていてくださることは宝だと思っています。

けれども職業性質上、または職業倫理上、ピアスタッフやピアサポーターのような自己開示の仕方とはまた違いますよね。看護師、精神福祉士、心理士、医師…などの場合、確かに困難の体験を有しているけれども、いるけどいない、みたいな感じになっていることも沢山あるだろうなぁって。なので、きっとご本人だけが手にしている苦労とか、それこそピアスタッフやピアサポーターの視点にはない苦労などがきっとあるだろうなあと思うのです。


なにが言いたいか、自分でもまだうまく言葉にできないのですが…。昔は、それこそ精神科につながった頃はそんなこと考えたこと全く無かったなぁって。よく考えてみれば、生きている人みな、それぞれに日々色々な事があって、嬉しいことも、つらいことも無いわけないのに、それでも昔はそこに思いが至っていなかったなぁと。


こころの元気に関わるみんなが、職種とか関係なしに、いろいろな視点や経験をわかちあったり、お互いの力にしていけたら豊かだよなぁとか。そして辛い時、胸がキューっとなった時とかも職種とかを越えて、互いにこころ癒える交わりが持てたら、一人で無理を抱えなくてもよくなったりしないかなぁとか。そんなことをグルグル考える日々です。





(つぶやき人 りえちん)