2023年12月24日日曜日

22日目(2023最終回):ただそこにいる


 こんにちは!ながおかもんもんモンです。

クリスマスを迎え今年のブログも私で最終回。みなさまはどんなクリスマスを迎えたでしょうか。

ちょうど昨日(ということはブログを書いているのは24日以降…)しっぷろミーティングがありまして、近況から今年1年なんとなく思いを馳せる時間がありました。

楽しいことよりも悲しいことやしんどいと感じていることを私は思い浮かべたのですが、なんでしょう…、それをただ、ああそうだったんだなと感じることのできる雰囲気がそこにありました。

自分の中に起こる感情や起きたこと自分がしてしまったことや人のことに、いいとか悪いとかああだったとかこうだったとか、なまえをつけたり色をつけたりしてしまうことが多いのですが、ただそうだったんだな、と受け止めることができる場を自然とつくり出しているしっぷろメンバーはすごい方達です(自画自賛!)。根底に人への愛や敬意が〜それがどんな状況にある人に対しても〜あるからなんだと思っています。

そんなメンバーがつくっているこの『しっぷろ』のサイトも、ピアスタッフやピアサポートに関することで悩む時やしんどい気持ちになる時に暖かな温度を届ける場になると信じています(自画自賛2回目)。

そんなところで、皆様メリークリスマス!そしてどうぞよいお年をお迎えください。


2023年12月23日土曜日

21日目:それぞれのピアサポート

 

 

「あっ」という間にクリスマスですね…!1年が本当に早い!

 

最近、思い悩むことがありまして、「誰かに相談したい」と思ったのです。

さて、この時にどのように私の思考が働いたかというと…。

 

    誰かに相談したい

    家族はちょっと難しいなあ(当事者すぎる…)

③ あとは、その問題の先輩がいいなあ

    贅沢を言えば私と同じ問題を乗り越えている人だといいかな。ちょっと距離があって、見守るように聞いてくれるような…

 

そこまで考えたときに、「あ、これを言葉にするならピアサポートだ」と気づきました(遅い?)

 

この関係はきっと固定されるものではなく、私自身がサポートを求める側になることもあれば、誰かを支える人になることもある。いろんなピアサポートが世の中にあるとありがたいなと思い、来年も支えられたり、支えたりしながら1年が過ごせたらとも思います。

 

それでは皆さま、メリークリスマス!!


つぶやき人:えみ 


冬のひそかな楽しみ…それは山田うどんの「鍋焼きうどん」。今年もいつから始まるのかHPをチェックしていました。鍋焼きうどんが大好きなのですが、好みの具材(エビ天、もち、卵
)が入っているところは中々見つからず、そんなときに救世主のように現れた山田うどんの「五目鍋焼きうどん」。近所にはなく、足を延ばした時だけに行ける本当に楽しみな逸品です。今年の冬は何回食べられるかしら…。

2023年12月22日金曜日

じぶんにひらく

 冬至でしたね。寒いです。

昨年「部屋に室温と湿度計を置いてみたら自分の快適な温度/湿度がわかった」という話をしっぷろメンバーに聞いてから意識してみたところ、確かにある温度を越えないと寒すぎて本当に動けないことがわかったみどりんです。寒いよーー・・・・(寒さにまるまってキーボードを打っています)


さて、今日は本の話。読書は小さい頃から好きです。でも、今年もあまりゆっくりと読む時間を取れませんでした。そんな中でも今年いちばんハマった本は古賀史健さんのご著書「さみしい夜にはペンを持て」(ポプラ社)でした。ならのさんが描かれた表紙もわたしの大好きな青を基調としたもので、中の挿絵もとてもかわいくて、ついつい目のつくところに置きたくなるご本です。



本の帯には「『自分との人間関係』を築く本」と書かれています。書くことの意味や効用を説かれているようですが、新たな切り口であり実践的であり興味の湧く内容でした。

わたしはいつからか、こころにひっかかるものがあった時ややり場のない思いを抱えた際にはノートに綴るということをしていました。単なる愚痴を書き連ねるだけでそのページはある意味でゴミ箱のようになっていました。おそらくそれは表出することに意味があって読み返すためのものじゃないからそのままになっていたのですが、少し角度を変えて書いてみると後で読み返しても面白い日記になりうるのです。少し視点を変えて書いてみるだけで読み物になりうるというのは、目から鱗というような新しい発見で刺さった一冊でした。書くということ自体が合う合わないはあるけれど、一つの道具になりうるなあと思っています。


前回は、どちらかというと「ひとにひらく」ことを書きましたが、日記を書くというは「自分にひらく」ようなイメージです。ひとに語ることや、自分で日記を書くことは、自分のこころをのぞくことになり、意識にのぼっていなかった思いがあふれることもありますね。思ってもいなかったことがつい引き出されたということもあり、意外さと面白さがあります。とはいえ、それは怖いことでもあります。

そう思うと、人と関わるのが怖かったときは、知らない自分が出てくるのも怖かったし、自分を見つめるのも怖かったのかもしれません。その上でいまひらけているのは、知らない自分がでてきても大丈夫と思えるようになったということかも。負のループに陥ると「わたしって、なーんも変わってないなあ」と凹むこともありますが、少しずつ変わっていっているのかもしれませんね。そんなこんなも、まわりの人たちがいるから。しっぷろのメンバーも、みんなのその位置からそれぞれのメンバーの存在を認めて応援している感じがします。うまく言えないのだけれど、わたしが何か言ったところでさーーっと遠くに去っていくわけでもないし、至近距離で一挙手一投足をサポートしてくれようとするわけでもない。もちろん多少の移動はあれど、あなたは自分でできるよね、と信じつつそのままのペースを見守っていてくれるような。それが心地よいし、自分への信用を重ねることにもつながるように思うのです。

今年は、より「感謝」を思える年でもあったように思います。まわりのひとに感謝、環境への感謝。わたしの推している会社社長がよく「愛と感謝とリスペクト」を伝えているのですが、本当にそのまんま。来年もひきつづき愛と感謝とリスペクトに満ちた一年にしたいと思っています。


つぶやきびと:みどりんりんりん(ながおかもんもんもんが可愛かったのでわたしもジングルベルを意識してみました)

2023年12月21日木曜日

19日目:ちょっとした声かけ

 木曜担当の、りえちんです。
しっぷろメンバーのブログを読むのがここ最近の密かな楽しみです。みんなの日々のブログを読みながら自分の番になると困ってしまうのですが、今日あった小さなやりとりを書いてみようと思います。

  

昨日の夕方、急遽予定変更をせざるを得ないような出来事があったのですが、そのやりとりのなかでは「すみません」「ご迷惑をおかけし申し訳ありません」という言葉が交わされつつも、それ以上に「ありがとうございます」「そんな風に連絡もらえるととても助かります」「そういう予定変更ってとっても重要だよね」(←柔軟な対応が必要だよね、という意味だとうけとりましたが)、というようなやり取りが交わされ、随分と気が楽になりました。

また、「予定が変更になって、正直助かりました」という声も聞こえたりして、私自身も少し安堵したり、今日になっても「こちらこそいつも勝手言っているのに対応してくださって感謝しています」と連絡くださるかたもいたり。


きっとこのブログを見て下さった方の多くはピアサポートとかピアスタッフ、ピアサポーターなどに少なからず関心がある方なのだと思っています。ピアスタッフとして…とかは一旦脇においてみて、シンプルに助け合うということを味わった小さなやり取りでした。でもピアサポートってこういう所にも沢山の大切なことやエッセンスがつまっていて、そしていつもピアサポートについて分かち合いを重ねている人達の間での出来事だったので、こんな風な暖かい気持ちが行き交ったのだなぁと思っています。

 

ひとたび場が変わると
・予定の変更はもっと早くに言ってほしかった…という声
・そんな急なこと困る…という声
・はたまた予定通りに進めるべきだ…という声

こんな声があがってきてもおかしくないな、とも思ったりも。
でも、そんな声がもし昨日の時点で行き交っていたらきっと今頃、すごく落ち込んだり、焦ってしまったり、自分を責めることを続けてしまったかもしれません。でも安心・安全の感覚を感じられたことで、「次はもっとこういう風にもできたらいいな」とかそんな気持ちや、関わる人達への感謝が沢山湧いてきました。

大それたことではないけれど、小さなところにこそ大切なエッセンスが宿っているとも思いますので、小さなことをひとつひとつ丁寧に重ねていけたらいいのかなぁなんて改めておもったのでした。


つぶやき人:りえちん



2023年12月20日水曜日

18日目:夜は暗くてはいけないか


こんにちは!にしこです。


Silent night, Holy night ...


きよしこの夜、今年もクリスマスイブが近づいてきました。夜の街は賑わい、光で溢れています。LEDのイルミネーションで彩られた眩い夜を、聖なる夜に厩で生誕されたというイエズス様は予見されていたでしょうか。

 


現代を生きる私たちの夜はどんどん明るくなってきています。テレビなどで人工衛星画像を目にする時、人工の光で輝く夜の地球の明るさには驚かされます。特に列島全体が明るく映し出される夜の日本は、明かりをたどれば日本地図をそのままなぞれるかのようです。


私たち人間は歴史的に「明るさ」を求めてきました。焚き火や松明などの原始的な明かりから始まり、灯明、行燈、蝋燭、そして、ガス灯、白熱電球、蛍光灯、LEDへと続く技術の進歩と、照明インフラ整備を含む文明社会の発展に伴って、夜はどんどん明るくなっていきました。ですが、ここにきて明るさの追求に疑念を呈する議論も出てきているようです。地球温暖化や省エネルギーの観点だけでなく、夜行性の動物・昆虫の営みや、サンゴの産卵など自然界の生態系に人工光がもたらす影響、すなわち光害(ひかりがい)への懸念から、警鐘を鳴らす科学者の方がいます。

 

明るすぎる夜は、地球環境に影響を及ぼしますが、私たちの内面世界にも少なからず影響を与えているのではないかという気がします。

 

私の幼少期は、蛍光灯が主流でしたが、白熱電球も生き残っているという、そんな時代でした。生まれ育った郷里、新潟の地方部の夜は、今に比べると格段に暗かったです。外に出ると天の川など星空が仰げましたし、夏の夜、朧げな蛍の光も印象に残っています。家の中も居間こそ蛍光灯で明るかったけど、玄関や台所は薄暗かったです。家のそこここに闇が潜んでいて、夜のお手洗いはとても怖いものでした。闇の中に、お化けや鬼、もののけなど、この世のものではない妖しき気配を疑いなく感じられたし、夜、真っ暗い部屋で布団にもぐる時など、人は死んだらどうなるんだろうとか、自分は本当にこの世に存在しているのだろうか、といったことなどを考えて、とても怖くなった思い出があります。

 


いま東京に住んで、真の闇というものを体験することが皆無になったことに気づかされます。闇に身を浸す機会がなくなるにつれ、深く思索する時間も減ったように思います。暗闇の中で死への恐怖を感じることがなくなった分、生きていることへの意識も希薄になった気がします。


哲学や思想や宗教は、きっと夜の暗闇の中から生まれてきたのだろうと思います。明るいことはいいことか。光というのは、闇があってこそのもの。元来、原始から存在した闇と共に、見えないものへの畏怖も失いつつある私たち人間の将来はどうなるのかなあと、喫茶店の間接照明の薄明りの中、考えていた今日の午後でした。


 

※今日のこの稿のタイトルは乾正雄先生のご著書から拝借したものです。乾先生曰く「暗さは人にものを考えさせるものだ」。参考にした本は以下です。

 

  • Bogard, P. (2013) The End of Night: Searching for Natural Darkness in an Age of Artificial Light. London: Fourth Estate.(=2016. 上原直子訳『本当の夜をさがして ― 都市の明かりは私たちから何を奪ったのか』 白揚社.)
  • Eklöf, J. (2020)Mörkermanifestet: om artificiellt ljus och hotet mot en uraldrig rytm. Natur & Kultur. (=2023. 永盛鷹司訳『暗闇の効用』 大田出版.)
  • 乾正雄(1998)『夜は暗くてはいけないか ― 暗さの文化論』 朝日新聞社.

 

ではまた!

 

つぶやきびと:にしこ




17日目:まっさらに見る

何かができること、テキパキしていること、時間にきっちりしていることは良いこと 
それをしたいと思えなかったり、寝坊したり遅刻したり、何かを忘れちゃうことはダメなこと
って どこで、いつから、そんな価値観が身についちゃったのだろう。 

何かをできなかったり、忘れちゃったり、わからなくなっちゃったりすることに 
引け目を感じたり申し訳なく思ったりなんて、しなくていいはずなのに。 
まわりの誰も気にしてないのに自分が気にしちゃったりってなんかもったいない。 

自分のものの見方を認識したり、
それもこれも価値観の一つに過ぎない、できごとの一つに過ぎない
って思えるようになりたいものです。
 
ピアサポートと関係ない話ですが。

つぶやきびと:ゆっきぃ

2023年12月18日月曜日

16日目:対価を得て誰かをサポートすることと対等性

にしこさんが対等であることについて書かれていて、そのような見方もあるのかな、なるほど、と思って書いてみました。あまり推敲しないでドバッと書いているので、こんな風に思ったくらいの文章です。


「親と子供は対等なの?」とか「先生と生徒も対等な関係でありたい」のような日常的な場面から、大きなことがら「日米関係は対等か?」といった言葉を思い浮かべると、対等とは、社会的な役割や力関係の差はありつつ、社会的な役割や力関係の行使をいったん置いておいて、お互いの関係が対等になるように関係をつくっていきましょう、あるいは、つくっていきたい、というニュアンスを持っているのかな、と思います。


その根底には、おそらくお互いの人権(権利)が尊重されていて、相手を操作しようとしない、そのためには、自分の感情と行動に責任を持つことといった約束事があるような感じを抱いています。なので、僕たちは対等だよね!と言っているのに、一方的に操作されている感じを受けたり、尊重されていないと感じると、対等ではないと思うのでしょうね。


支援する・支援される関係は、どちらかを操作しやすい関係かもしれないですね。支援される側の目線に立てば、管理される、閉じ込められる、縛られる、訓練される……という話題はよく耳にしますが、尊重されている感じがまるでしないから対等ではないと思うのでしょうね。


一方で、支援者側の目線にたてば、「支援を求められる側、お願いされる側」という立場です。治療や対人援助の場面では、医療やソーシャルワークという専門性だけを求められることは稀で、たいていは何かしら共感性もセットで求めらると思います。見ず知らずの人から、自分が何かしらの専門職や支援者という役割があるからという理由だけで、過度に共感を求められたり、相手の機嫌を損なわないようにしないといけないことが起きたりします。


見ず知らずの出会ったばかりの人から共感を期待されるって、冷静に考えてみると怖いことかもしれませんね。


共感を過度に求められるということは、自分の感情を操作されるというでもあって、対等ではないでしょう。


お金を渡して(自分のお金ではなくて税金だとしても)サポートを得ることは今の社会では当たり前の権利だと思うのですが、そのサポートの範囲に共感はどれくらい含まれるのでしょうね。


共感しても良いし、共感しなくても良い、くらいが対等な感じがするのですが、お金という対価を得てサポートを提供する場合にはなかなかそうはいかないはず。どれくらいの感情労働を提供するか(あるいは感情労働を提供しないのか)は広大なグレーゾーンが広がっているように感じています。


ただのサポートであれ、ピアサポートであれ、サポートには何が含まれているのでしょうね。自分の場合、誰かに助けてほしいという時は心のどこかで相手に共感を期待していることはありますし、誰かを助けたいという気持ちは共感を伴っていることが多いなぁと思います。自然に共感が湧きあがると良いけれども、求められるとしんどいのかな、などと考えたりしました。


「人としての対等」の言葉は漠然としすぎて自分を振り返るには難点があると思っているのですが、少なくとも共感しても良いし、共感しなくても良いくらいの関係だとありがたいなぁと思いました。(かや)



2023年12月17日日曜日

15日目:「好き」に目を向ける

こんばんは!ながおかもんです。 アドベントブログも3週目に突入しました。
来週はクリスマスイブ!早いものです。 私が住む宮城県では雪が降りました☃️(室内でポケモンGOをやって気づいた笑) 
雪が降る時の寒さはキンとしていて、クリスマスシーズンの到来を感じています。 

 さて、ブログも3週目となると何を書こうかしら…と少し悩むのですが、 
今日のタイトルは「好き」に目を向けるとして、「意思決定支援」について考えていることを書こうと思います。

 「意思決定支援」とは最近福祉領域で大事とされている事柄です。
 福祉領域では、「利用者の意思を尊重して」することがまず前提としてあるのですが、「意思を尊重する」の具体が明らかにされていなかった経緯もあるかと思われます。 
それくらい「意思」を表明するって簡単ではなくて、そこに関わる人が目を向け、心を向け、繊細に細やかに気づいていく必要があることなのだと考えています。 
個人的には「意思決定支援」という名前がついたことには違和感を感じています。
 意思決定支援について深めていくと、普段の関わりや関係性によって相手を知っていくことや相手が本音を言える関係性や環境がすごく大切であることがわかります。
 …でもそれって「意思決定支援」以前に、基本的なことなんじゃないのかな…というのが私の考えです。
 福祉の領域が、いかに「支援する」「支援される」枠組みで作られてきたかを思い知らされますし、さらに「利用者」「職員」も枠組みとなって、人として響き合うようなことが置き去りにされているような感覚を覚えています。これは一方的な批判でもなく、そこに身を置いている自分への自戒の意味もあります…。

 と、少し逸れてしまいましたが、意思決定を支えるというのは、相手の「好き」がどこにあるのかに目を向けるところから…というのが、 最近受けた研修で教えていただいたことでして、「好き」に目を向けることってとても大切なことだなと改めて思った次第です。
 とはいえ、自分の「好き」がわからない場合もあります。好きだったものが環境や状況が変わったりすることで手からこぼれ落ちて無くなってしまうこともあります。 
好きなものがあるときはそれを分かち合うこと、分かち合える人がいること、好きが見つからないときは一緒に探してみること、そんなことを積み重ねていく関係性が大切なのだと思ったのでした。



 「意思決定支援」なんて大きなテーマを選んでしまい(汗)、さらにまとまらない感じになってしまいましたが、今日はここで締めたいと思います。

 つぶやき人:ながおかもん

某百貨店のライオンもクリスマス仕様🎄

もう1枚!
いろんな大切な人たちと好きで繋がれた某キャラクター🍄


2023年12月16日土曜日

14日目:新しい冬を迎えて

 

皆さま、こんにちは。

 

今年の冬は暖かいな、と思います。

今日も東京は20度まで上がり、春のような陽気でした。

 

そしてどこに行くのも人が多いこと!休日の電車も満員で、人出が本当に増えたことを実感します。1年前はあんなに遠慮しながら外出していたのに、としみじみします。

 

色々なことができるようになって嬉しい反面、何だか体や心の疲れも感じています。

なんでかな、と考えてみたのですが、なんだかそれも当然のように思いもします。

 

コロナ禍になった時は、人にも会えず、外にも出られず、一気にマイナスに転じたような気がしました。4年かけてその状態になれてきた中、今年になってやっと行動制限がなくなってきました。「日常」に戻ることはマイナスからプラスに変化することなので、良いようにも思いますが、それなりに揺り戻しの負荷はかかるんだな、とわが体の状態を見ながら思います。

 

皆さまは、体や心の疲れを感じていませんか?

私もですが、この12月は無理せず、ゆっくり過ごしましょう。

この変化に徐々に体をなじませながら、また新しい年を迎えられたらな、と思いました。

 

つぶやき人:えみ

   ↑来年は焚火がしたいと思っているのですが、コンビニで立ち読みしていたら

 雑誌の付録にムーミンの焚火台が!思わず10分くらい逡巡しました(買いませんでした)

2023年12月15日金曜日

13日目:ぎりぎりを超えて

 ぎりぎりを超えて、つい締め切りを超えて更新が遅くなりました。すみません。


さて、最近の話。

わたしの仕事的なものの中で、ちょっとハードな業務があります。それを担うのは、ある方とわたしのふたりどちらかで、タイミングによって担当が異なります。いまでは多少慣れたけど、やっぱりストレスのかかるその業務。その方はいつも淡々と取り組みます。でも先日、珍しくいろんなことがあったらしい。翌日わたしを見つけるや否や少し興奮気味にイロイロを聞かせてもらい、なんだかただわたしに話してくれたことに胸が熱くなりました。

また、大好きなアーティストを共有している友人との話。最高のLIVEのあとでなんとも言えない高揚感で酔っ払いながらため息をつく時間も、口角泡を飛ばしつつそれぞれの思う魅力について語り合うのもただただ胸が熱くなるものです。


人に近づいた、と思うのは、むきだしの感情を表出できたり表出してもらえたりしたという実感を伴った時かもしれません。とはいえ、あからさまな怒りを向けられるとかいうのはまた別の話。お互いにお互いを認めてリスペクトを持った上にまるはだか(もしくはそれに近い)感情を出し合って受け取り合うことでまた一層、土台が固まるように思います。


やみくもに人に近づくこと=(イコール)いいこと、ではないけれど、そんなふうに人と近づいた経験が増えると、自分のことをよりよく知り受け入れることができて、自分にも人にもおおらかになれるような気がします。

わたしにとっては、閉じこもっていた以前より、ひらけるようになった今日の方が楽しいし世界がまるくなった気がします。

ぎりぎりぎゅうぎゅうしちゃう日でも、まあるいひろい世界を信じて。ぎりぎりを超えていきたいです。


つぶやきびと:みどりん


2023年12月14日木曜日

12日目:経験を活かすことについて思うこと

しっぷろメンバー、りえちんです。

わー、やってしまいました。木曜当番なのですが、この間の木曜は朝早くから飛行機に乗っていたり日中バタバタしており、Blogを書くことがすっかり後になってしまいました。さて、軌道修正して、日頃思っていることを少し書いてみようとおもい、今回のタイトルは「経験を活かす」ってなんだろうとしてみました。


ピアスタッフ・ピアサポーター界隈にいると「経験を活かす」ってよく耳にしませんか?そして、その「経験を活かす」という言葉の前について来るのは以下のような言葉かなと思います。

  • 「精神疾患の経験を活かす」
  • 「困難の経験を活かす」
  • 「生き辛さの経験を活かす」

 

どれも、そうですよねぇと思いますがピアスタッフ・ピアサポーターの仲間と話す中で

  • 「リカバリーの経験を活かす」
  • 「仲間と支え合ってきた経験を活かす」
  • つまり「ピアサポートの経験を活かす」
  • はたまた「困難の経験を乗りこなし、それらの経験から学んだことを活かす」
…という風にもう一歩踏み込んでいくのも大事よねぇと思ったりしています。
発病して、はじめて精神科に受診をしてからだいぶ経ちました。

いまはその時よりも、自分が良い感じでいられるために役立つことや、考えた方を沢山見出してきたと思っています。(まだまだ進化中ですが)ピアスタッフ・ピアサポーターとして働くときに、「精神疾患の経験」「困難の経験」にとどまらずに、そこから更に1歩・2歩と深めて、改めて「で、経験を活かすっていうその経験ってなんだろう??」と考えてみるのもまたいいなあと思っています。

つぶやき人:りえちん


※写真は最近はまっているヨーグルト。ただのヨーグルトではなくて、レンジで少し温めます(1分くらい)。冷たいよりも食べやすいし、ヨーグルトにある菌が活発になるそう。そこにオリゴ糖+ドライフルーツ+ナッツを足すのが私流です!^^ 食べ過ぎている気がする…、けれど何か食べたいかも…という時にお菓子代わりに食べています。


2023年12月13日水曜日

11日目:ピアスタッフにとっての対等とは

こんにちは!にしこです。


「私はあなたとの対等な関係を大切にします」

誰かにこのような言葉をかけられたらみなさんはどのように感じるでしょうか。そして、もしそれが、あなたがサービスの利用者で、相手がピアスタッフだったらどうでしょう。

 

実際のところピアスタッフから「私とあなたは対等だよ」と声をかけられたら、あなたは「そうかな?」とまず首を傾げるのではないでしょうか。だってピアスタッフはお給料をもらっているスタッフで、あなたは利用者なのだから、やはり対等ではありませんよね。ピアスタッフが名札をつけてあなたの入れないスタッフルームに出入りしていたり、ピアスタッフが記録であなたの電話番号を知っているのに、あなたはピアスタッフの番号を知らないとか、そういうことなどがあったら、ピアスタッフと利用者は対等ではないと感じるのは、なおのこと当然だと思います。

 


ピアスタッフの例に限らず、そもそも私たちに対等な関係性というものは存在するのでしょうか。人は一人ひとり置かれた立場が違います。経済力、健康度、対人関係など、その立場によって、強い人と弱い人、言葉を変えれば、優位な人と劣位な人が存在します。そう考えると、対等な関係性というのは現実的にはとても難しい気がしてきます。

 

優位な人や劣位な人といった、人の優劣は「できること」をどれだけ多く持っているかによって決まるのではないかと私は思います。「できること」とは身近なところでは、

  • 好きな人と一緒にいられる
  • 好きなお菓子を食べられる
  • 好きな歌を聴いたり、好きなテレビ番組を見られる
  • 好きなコレクションを手に入れられる
  • 好きな場所に行ける
  • 好きなことを学べる

などが挙げられるでしょうか。さらに視野を広げると

  • 生命の維持に必要な水や食料を手に入れられる
  • 貨幣を対価に欲しいものを手に入れられる
  • 高収入の職業に就くことができる
  • 優位な配偶者を得て、子孫を残せる
  • 成績づけや立場分けといった評価により他人の優劣を決められる
  • 正義の名のもと他人の自由や命を奪うことができる

などといったことも「できること」として世の中には現実的にありそうです。

 

こうしてみると、これら「できること」は全て、経済、情報、サービス、技術、組織、慣習、法制度などといった社会的な仕組みから生み出されるものだと気づかされます。「できること」を持っている優位な人と持っていない劣位な人の区別、つまり優劣が、社会の仕組みの中で決められていくというのは、人間の営みの特徴かもしれません。この点、他の個体との格闘能力や、餌を獲る能力など、生物的個体差により優劣が決まる野生動物とは対照的です。

 

社会の仕組みの中で優位と劣位が起きる時、人は順位づけられます。それがまた別の意味での人間特有の区別を生み出します。それは差別と偏見です。差別や偏見は「できること」の多い優位な人と「できること」の少ない劣位の人の間で生じるものだという気がします。

 

社会的立場でみたとき、人は誰しも完全に対等な関係ではありません。



とはいえ、とはいえですよ、

それでも私は、人間は「一個の人としては」対等であると信じたい。人生や魂や命の重さに違いはありません。生物的個体差で強弱が決まる野生動物と違って、私たち人間は社会的存在だからこそ、対等になれるとも思うのです。人種や性別、信仰、身体的特徴、そして社会的優劣の次元を超えられた時、それぞれが一人の存在として人は対等となれると私は思います。


だから、冒頭の「私はあなたとの対等な関係を大切にします」という言葉を、ピアスタッフとして発するとしたら、立場を超え、人としての存在の上で対等でありたいという、そんな思いを込めて目の前の人に伝えていきたいと思います。

 


いま、相川章子先生(聖学院大学)が代表を務める研究会に加えていただいて「ピアスタッフが大切にしたいこと」をみんなでまとめています。これはいわゆるピアスタッフの核となる価値(コアバリュー)です。内容を12項目にまとめ、先日12月10日の「第11回全国ピアスタッフの集い」で発表しました。実は冒頭の文句は「私たちは、あなたとの対等な関係を大切にしています」という文言で、12項目のうち一番最初の項目に位置づけられているものです。

 

つまり「ピアスタッフが大切にしたいこと」として「人として対等であること」を最初に掲げているわけです。これは、「あなたも私も人として大切な存在」という意味を込めたとても大事なメッセージです。ピアスタッフとして基本の理念になると考えています。

 

「ピアスタッフが大切にしたいこと」は以下からご覧いただけます。お時間のある時に見ていただき、みなさんからもご意見をいただけたらと思います。

 

https://sites.google.com/view/peer-values-roles

 

ではまた!


つぶやきびと:にしこ




2023年12月12日火曜日

10日目:ピアスタッフのつどいとアドボカシー

大正大学の銀杏の木
12/9-10はピアスタッフの集いがありました。

私も参加させていただき、お久しぶりにお会いできた方、zoomでは会っていたけど初めて対面でお会いした方、初めて知り合った方、たくさんの方達とお会いできました。

感じたこと、印象に残ったこと:
人と会ったり、人の存在を感じたりって、疲れるところもあるけど、やっぱり嬉しいもの。
新しい見方、考え方に出会ったり、新しい体験をする、今までよりも深く知る、って楽しい。
あまり知らない者同士でも、ほんわかしたり、うれしくなる体験もある。

1日目の公開講演会でお話ししてくださったジャネット・マー(Janet Meagher)さん。
「アドボカシー・リカバリー・ピアワーク」についてお話してくださいました。
アドボカシーという言葉も、ピアワークという言葉も、私自身はこれまであまり使ったことがありませんでした。

ピアワークとピアサポートは、重なるところもあるけれど、同じではない。(ピアワークは、ピアサポートワーカーの役割とか職務とか姿勢とかかな、と感じました。)
そして、ピアワークでは、advocate for(アドボケイト フォー)ではなく、advocate with(アドボケイトウィズ)だ。誰かのために代わりに言うのではなく、その人が自分で自分のことを言えるように支え、その人と共に、なんだ。
というのが印象に残っています。

アドボケイトとか権利擁護っていうと、代弁するような要素もあるような気がしてしまうのですが、ピアワークは代弁はしない、とおっしゃっていて、そうか、そうかも。と思いました。
アドボカシーとかアドボケイトについて、もっと知りたいと思いました。

私自身は分科会などには参加できておらず、なので私の感想は部分的なものであることもご了承頂けたらと思います!

つぶやきびと:ゆっきぃ


2023年12月11日月曜日

9日目:久しぶりにピアスタッフの集い

ピアスタッフの集いに参加してきました。 

 直後に体調を崩してしまい、ブログを書けずにいて申し訳ない限りです。過呼吸やらパニック発作で久しぶりにちょっとヤバかったです。

集いでは、ようやく、しっぷろメンバーのみどりんにお会いできました! ぱちぱちぱち。

しっぷろはCOVID-19の感染拡大の頃に始動したのでオンラインばかりだったのでした。 ずーっと前に会っていたかもしれないのですが、個別認識していなかったので公式には初です。 

その場にいたしっぷろメンバーで記念撮影してわいわい。嬉しいものです。どこかでじっくり話したいですね〜。 

懐かしい人と再会したり、研修でもなくて初対面の人とグループワークとか、ピアスタッフの集いの雰囲気は久しぶりだなぁと記憶をふりかえると、わたしが対面でピアスタッフの集いに参加したのは2018年の第7回大阪以来。5年も前ですね。

翌年度の第8回札幌はCOVID-19感染拡大で中止に。実行委員会の苦渋の決断はまだまだ記憶に新しいです。その後の第9回はフルオンライン開催、第10会の福岡開催はハイブリッドでした。 

このCOVID-19で集まれなかった時間に、障害者ピアサポート研修やピアサポートの加算が創設されました。ピアサポートの制度化と言われたりもしています。かやは研究事業に参加させていただいたりと制度化のためにたくさんの時間を割いてきました。

ちなみに、集いの初参加は第3回の埼玉。当時のわたしの周りには身近に地域移行のピアサポーターはいましたが、雇用されているピアスタッフと会ったこともなく、他の人たちはどんなことをしているのだろうと疑問のなかで働いていました。

集いでたくさんのピアスタッフに出会えたことは今の活動につながっています。ピアスタッフの集いに参加していなければ、どこかで心折れていたかもしれません。

思えば遠くに来た感じもしますが、ピアスタッフの業界はいまだ黎明期です。今回の集いに参加された方の中には最近ピアスタッフを知りましたという人もおられました。そのような方たちはどのような光景を目にしていくのでしょうね。

この間に、ピアスタッフという職業について社会的な認知がされつつあります。職業にするということは自分たちがやりたいこと・できることをするだけでなく、世間の(そして当事者の仲間の)期待に応えるということです。

ピアサポーターの仕事に就くことが自己実現になる一方で、ピアサポーターという働き方に自分を合わせることにもなります。その辺りが当事者活動と仕事としてのピアスタッフの違うところでしょうか。

 ピアスタッフである私たちのやりたいこと・できることと世間の期待がちょうどよい塩梅で重なっていれば良いですが、それなりにズレがありそうです。ピアスタッフの間でもやりたいこと・できることは違うでしょう。

だからこそ、ピアスタッフの集いのような場に集まって、自分たちが何者であるからを問い続けないといけないし、世間にも発信しなければいけない、と思っています。

 昔はもうちょっと気楽だったかもしれないなぁと思いつつ、でも、仲間が増えると力強いものです。来年の集いも楽しみにしています!

2023年12月10日日曜日

8日目:ユーザーズアクション

 こんばんは。ながおかもんもんもんです。

今週末は東京で「ピアスタッフの集い」が開催されていましたね。しっぷろメンバーの半分が関わっていたとのことで、大変おつかれさまでした。同じことに関心がある方達が出会える場って良いですね!と書きながら、私は割と人見知りをするので(周囲からはそうは見えない!と言われるのですが、それは関わるみなさまが関わり上手だからです笑)、モジモジしてしまうなぁなんて考えたりしました。仲間を見つけられた人も、今回はうまく周りと関われなかった…という人も、みなさまお疲れ様でした。いずれこの集いが何かの糧になるのでしょう。

さて、タイトルには「ユーザーズアクション」と記載しました。今宮城県では、県立の精神医療センターの移転問題が上がっています。ざっくり言うと、県南にあったセンターを県北に移そうとういう構想です。県政としては将来を見据えて医療構想をしていきたいというところなのでしょう。でも実は宮城県の精神医療保健福祉は県南に県立精神医療センターという拠点をもとに粛々と整備されていった経過もあります。ただでさえ圏域が広い中での整備であり、身近な市町村ではまだまだ届き難いという現状もたくさんあります。また当事者お一人お一人の生活も、病院のある地域をもとに成り立っているという現状もあるでしょう。病院があるから居住地を決めたり居住サービスを建てたところもあるでしょう。病院が地域を変えて移転するというのはそれを破壊する行為に近いと私も感じます。その移転に対して宮城の当事者の方達が反対のための活動をしていて、その名称が「みやぎユーザーズアクション」です。

私はこの名前がとても素晴らしいなと思っています。ユーザーがアクションしていくこと。自分達のことを自分達で動いていく、という意思表明です。「私たちのことを私たち抜きで決めないで」をまさに体現した活動です。

みやぎユーザーズアクションにはかつての仲間や私の成長を見守ってくださっているかたが中心となり活動しています。ああ本当は何か私もできたら良いのだけれども、応援の気持ちを送るだけで何もできていません。

アクションを起こせない私ですが、みやぎユーザーズアクションの活動が達成することを祈っています。


つぶやき人:ながおかもん

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