2023年12月18日月曜日

16日目:対価を得て誰かをサポートすることと対等性

にしこさんが対等であることについて書かれていて、そのような見方もあるのかな、なるほど、と思って書いてみました。あまり推敲しないでドバッと書いているので、こんな風に思ったくらいの文章です。


「親と子供は対等なの?」とか「先生と生徒も対等な関係でありたい」のような日常的な場面から、大きなことがら「日米関係は対等か?」といった言葉を思い浮かべると、対等とは、社会的な役割や力関係の差はありつつ、社会的な役割や力関係の行使をいったん置いておいて、お互いの関係が対等になるように関係をつくっていきましょう、あるいは、つくっていきたい、というニュアンスを持っているのかな、と思います。


その根底には、おそらくお互いの人権(権利)が尊重されていて、相手を操作しようとしない、そのためには、自分の感情と行動に責任を持つことといった約束事があるような感じを抱いています。なので、僕たちは対等だよね!と言っているのに、一方的に操作されている感じを受けたり、尊重されていないと感じると、対等ではないと思うのでしょうね。


支援する・支援される関係は、どちらかを操作しやすい関係かもしれないですね。支援される側の目線に立てば、管理される、閉じ込められる、縛られる、訓練される……という話題はよく耳にしますが、尊重されている感じがまるでしないから対等ではないと思うのでしょうね。


一方で、支援者側の目線にたてば、「支援を求められる側、お願いされる側」という立場です。治療や対人援助の場面では、医療やソーシャルワークという専門性だけを求められることは稀で、たいていは何かしら共感性もセットで求めらると思います。見ず知らずの人から、自分が何かしらの専門職や支援者という役割があるからという理由だけで、過度に共感を求められたり、相手の機嫌を損なわないようにしないといけないことが起きたりします。


見ず知らずの出会ったばかりの人から共感を期待されるって、冷静に考えてみると怖いことかもしれませんね。


共感を過度に求められるということは、自分の感情を操作されるというでもあって、対等ではないでしょう。


お金を渡して(自分のお金ではなくて税金だとしても)サポートを得ることは今の社会では当たり前の権利だと思うのですが、そのサポートの範囲に共感はどれくらい含まれるのでしょうね。


共感しても良いし、共感しなくても良い、くらいが対等な感じがするのですが、お金という対価を得てサポートを提供する場合にはなかなかそうはいかないはず。どれくらいの感情労働を提供するか(あるいは感情労働を提供しないのか)は広大なグレーゾーンが広がっているように感じています。


ただのサポートであれ、ピアサポートであれ、サポートには何が含まれているのでしょうね。自分の場合、誰かに助けてほしいという時は心のどこかで相手に共感を期待していることはありますし、誰かを助けたいという気持ちは共感を伴っていることが多いなぁと思います。自然に共感が湧きあがると良いけれども、求められるとしんどいのかな、などと考えたりしました。


「人としての対等」の言葉は漠然としすぎて自分を振り返るには難点があると思っているのですが、少なくとも共感しても良いし、共感しなくても良いくらいの関係だとありがたいなぁと思いました。(かや)