2021年12月17日金曜日

20日目 やりとりの中で起きていること

 

昨日のりえちんの投稿を読んで考えました。

受け取る、って、簡単なことではないですよね。。


コミュニケーションって、ひととひととのやりとりだけれど、そこを細分化してみると


1.メッセージが発される(言葉とは限らない)

2.自分の受容体の全部をつかって感じ取る

3.湧き上がってきた自分の感覚を感じ取る

4.お相手に応答する(言葉とは限らない)


実はこんなプロセスがあるように思います。

そしてそう、このプロセスに時間をかけていなかったことに気付いた時期がありました。

それはたしか、自分の存在に揺らぎを感じた時でした。今までなんて反射的に反応を返していたんだろう、こころのフィルターを通さずに上部だけのありきたりの言葉でコミュニケーションをとっていたんだろう。それに気づいたらさらに言葉を発することが怖くなりました。特にこの3→4のプロセスが難しくて、「これは私の思い込みや偏見ではないか」「これを言ったら〜〜なのではないか」「自分にこれを言う資格はないのではないか」「こんな無意味なことを言うぐらいなら黙っていた方がよいのではないか」「黙っていたら相手に違和感を覚えさせてしまうかもしれない」「あの人ならもっといいことが言えるだろうに・・」etcetcがぐるぐるぐるぐる自分の頭の中をめぐっていて、相手が間の長さに戸惑っているのを感じることもしばしばでした。

それでも、それでいいからお相手の発信してくださったことと向き合いたいと思ったのは、おそらくわたしのメッセージにただただ寄り添ってくれる人たちがいたからでした。わたしのやり場のない不安や哀しみや怒りと認識できていない怒りをただそこにいて受け取ってくれる人たち。何か言葉をくれたり、一緒に涙を流してくれたり、わたしの代わりに怒ってくれることもあるけれど、言葉もなくただ一緒にわたしの垂れ流す感情に付き合ってくれ、感じてくれて、その場にいてくれる。時には、ただただ見守っていてくれる人もいる。どんなわたしの感情も在り方もそのままでいいと受けとってくれている感覚にすごく救われ、癒されてきたのでした。

そうか、言葉ではないのだ。どんな綺麗な言葉よりも、ただそこにいて受け取ってくれる、その感覚に救われたのです。おそらく、ぐちゃぐちゃな自分の感情も、耳を傾ける価値あるものとして受け取ってもらっている気がしたのだと振り返ります。


ばたばたした毎日の中で、時々忘れてしまいそうになってしまいます。言葉だけのキャッチボールになってしまったり反射的に返してしまう時もある。でも、やっぱり原点に戻りたい。

そもそも、こころのうちを発してくださることがありがたい。それを全身で受け取り、ゆっくりと自分のこころを通わせながら対話を重ねていくような、そんな時間を大事にできるひとにわたしはなりたい。

(つぶやきびと:みどりん)