2024年12月24日火曜日

13日目:じぶんを信じること

 本日は12/24。

しっぷろアドベント2024、今日が最終日です。ぜひともかっこいいことを書きたいのですが、ながおかもんのいうとおり、「できることはできるし、できないことはできない」。無理してはダメですね。


今まで、わたしは割と「書くこと」が好きだったのですが、なんだか今年は書くことを難しく感じるようになっています。なぜなら、今年は自分の作った文章を見てもらった時に「これでは伝わらない」「伝える気があるのか」などとご指摘をいただくことがあり、自分が良しと思っていたものってなんだったのかな、、、とわからなくなることが続いたのです。書くことが好きだっただけにショックもあって、ますます自分の見えている世界の基準への信頼が揺らいでしまいました。たしかに自分への過信があったかもしれず、そこは冷静に反省して向上していきたいところではあるのですが、いずれにせよ。ちょっと書くことが怖くなってしまいました。

自分を信用できないとき。それは昨年立て続けに忘れ物をした時にも感じました。仕事で失敗続きのときもそうです。自分を信用できないって、すごく足場が揺らぐ気がして怖いし不安で、ちっちゃくなってしまいますね。そんな経験、みなさんにもありますでしょうか。そんなとき、みなさんはどんなふうにしていますか?


わたしは、と思いを馳せると、このメンバーブログにあった「閉じる」というワードが浮かびました。そして、以前はりえちんの言うように、せざるを得なかったのを、最近は自分を大切にするために意図的に能動的に「閉じておこう」とできているかもしれません。これ以上開いて頑張っちゃうと、どんどんとご指摘やご助言がめりめりと自分のなかにめりこんでしまってよりダメージが大きくなってしまうのがわかる。なので、「すみません、一旦入ります・・!」って感じでしょうか。前はそうやって能動的に閉じる前にエネルギーを使い果たしてしまい、空き地の真ん中で無防備に大の字になり、「もう好きにしてください・・・」と攻撃を浴びるままにしてしまったのですが、最近はそこに至る前に自分を守れているのかもしれません。「逃げる」と思うと後ろ向きな気がして罪悪感もうまれるのですが、でもエネルギーを溜めるためと思うと、理性的な行動でもありますよね。りえちんが今年の10日目のブログで書いておられた武田さんのおことばに、わたしも救いをいただきました。そして、そういった試行錯誤をしている自分を思い返してみると、愛おしいものかもしれません。

みなさんがどんな状況にいまおられるかはわかりませんが、すこしでもあったかい場所で、ご自身を信じたり大事にしたりしている感覚をほんのりとでも持てる時間がありますように。

良い、お年を、お迎えください。


つぶやきびと:みどりん

2024年12月23日月曜日

笑い、笑われる、笑いあう

月曜担当のかやです。アドベントもすっかり過ぎて年の瀬に書いています💦

精神的につらいときにはお笑い番組がしんどい、見られない。そんな話を聞くことがありますし、わたしもその例に漏れずです。クリスマスの時期はみんな楽しげに見えて寂しくなる。そんな話はよく見聞きしますね。どちらも自分の置かれている状況を見せつけられるからかも、と思ったりしています。


コント番組や漫才のグランプリの類は、たまに見るのですが、面白いと思えるものはけっこう少ないかもしれません。たいていのお笑いは、いわゆる世間の普通とのギャップをネタにしていると感じていて、かみ合わない会話とか、ちぐはぐな格好やカップルとか、高望みをしすぎる人たちとか、そのような設定をしがちと観察しています。


人が面白いと思う場面の一つは、普通や当たり前とのギャップ、あり得なさであることが多いと思います。上のようなシーンを笑いのネタにすることは当然のことかもしれません。人の失敗を笑うのもそうですし、自分の失敗を笑い話にするのも、何かしらおかしいときが多い。


障害のある人も、コミュニケーションがかみ合わないことがしばしば起こりえますから、お笑い番組を見ていて、自分も含めて障害のある人が笑われてるのかな?という感覚を抱いてしまうことがよくあるのです。


不思議なところは、笑われていると思うことは常にではなくて、体調や状況次第である点です。自分とは直接関係がないはずのネタを見聞きして、自分は笑われる側だ、と感じたときにつらいんですよね。


笑う人、笑われる人の構図になるとちょっとしんどい。


とはいえ、自分の過去を振り返って、失敗が笑い話にできると前に進める感じがします。


自分にとって辛かったり、恥ずかしいと感じている失敗を、同じように経験している人が笑いのネタにしているとき、その話を聞いていると自分が揺らぐことがあります。余計に辛くなることもあれば、そうかー、この人はあの出来事を笑えるのかーと、失敗をすこし外から眺める体験をすることもあったなぁと思い出されます。


笑い合える場面は楽しい。


笑い合えるまでにならなくても、失敗談を笑えるロールモデルは、ピアサポートにとって大事な要素なのではないだろうかと感じています。


ただ、失敗談を笑い話にすることで、成功者ちっくな雰囲気も醸し出すかもしれません。誰も傷づかないような笑い話には、ちょっとしたコツとか、話し手の姿勢とか、何かあるのでしょうね☺️。

2024年12月22日日曜日

12日目:できることはできるし、できないことはできない

 こんばんは。ながおかもんモンです。

毎週日曜日に『心のモニタリング』の時間を持っています。モニタリングと言っても大層なことではなく、その時の自分の心の状態や占めている想いや気持ちをただ書き出しているだけなんですけど、これがけっこう自分にとってはよい習慣になっています。大抵は「焦っている」「やるべきことをやっていない」などのやるべきことに追われている気持ちでいっぱいか、「何もなくていい」などやるべきことが無くなって満たされて落ち着いている状態のどちらかで、どちらかと言えば大抵は追われている気持ちの方が多いです。

今日、その時間を持っている中で、私の中の「べき思考」が「やらなくてはならない」につながっていることに気づいて、自分の中の驚きでした。

私はわりと「べき思考」が強くて、それが自分を苦しめることも多いので注意しているのですれど、こうあるべきの思考が、あのこともこのこともやらなくてはならないとタスクを増やしていることに気づいたわけです。おおおおお〜、です。(そしてそのタスクはタスクなだけで、実際は全然着手できない…)

というわけで、日々のタスクはそんなに追い詰めなくてもよいのだと思いました。

できることはできるし、できないことはできない。それでいいのでしょう。

2024年、やり残したことやできていないこともたくさんあるけれど、生きていればいいんだ。日々、今のある生活が送れている事、私が存在しているだけ、ただそれだけで良し、むしろ素晴らしいよと褒めてあげようと思います。私もあなたも。

ということで、今年のブログの私の担当も今回で最後になりました。

みなさんどうぞよいお年をお迎えくださいね(◦'︶'◦)


つぶやきびと:ながおかもん

地元仙台「いたがき」のケーキ。仙台の千疋屋。
久しぶりに食べたけど、とても美味しかったです!





2024年12月21日土曜日

11日目:感謝

 年末が近づいてくると、今年あったできごとやお世話になった人、出逢い、わかれ、いろいろなことを思います。

しっぷろメンバーのアドベントブログを眺めると、皆がいろいろな思いを抱いたりいろんなことを感じていることがわかり、そんな仲間たちにいろんな感謝がわいてくると同時に、しっぷろメンバーだけでもこんなにいろいろな思いがあって、世界には何億人もの人がいて、こうやっていろんな思いを持つ人が集まってこの世が成り立っていて、しかも私たちにはたくさんの先達がいて、とか、もう世界や宇宙に感謝しかない気持ちになったりします。


かやさんの、50年前のピアサポートに触れる記事を読んでいて、確かに、社会も医療もその頃から変わってきたよな、と思いました。今でこそ、オンラインで遠くの人とも顔を見て集まることができたり、情報をインターネットで検索したりすることができるようになりました(オンラインでミーティングがこんなにできるようになったのはコロナ禍以降かな、と思います。)。ネットもメールも携帯もなかった時代(私自身は、電話は家族で同じ黒電話を使っていて、予定は紙の手帳に書いて、待ち合わせに遅れたら駅の掲示板だけが頼り、本は図書館で借りる、というような時代に育ちました。)に情報を得たり人とつながったりというのは、本当に大変なことだったろうと思います。

もちろん今も対面で集まっているピアグループもたくさんあると思いますが、最近はDiscord上のピアグループなどもあるそうで、ピアの活動やつながり方も、対面で集まったり電話や紙でやりとりする形からさらに広がっているのだろうなと感じます。

社会や文化や技術はどんどん変わっていて、つながり方も変わっていて、でも、そんな中でも、人とやりとりする、ということはずっと続いているんだなぁと感じました。


何かがまぶしく見えたり、感情が動いたり、ということもこの時期の自分には起こりやすくて、年末だなぁ、とあらためて感じています。心がほっとするような瞬間がこの世の全ての人にあるといいなと思っております。

まとまりのないままですが、こうしてつぶやいたり日々を振り返ったりというのは貴重な時間でした。ありがとうございました。

つぶやきびと:ゆっきぃ



2024年12月20日金曜日

10日目:閉じてもいいし、開いてもいい

突然ですが、わたしはx(旧Twitter)で発信されているの武田紘樹さん(宇宙の研究をされている)のファンで、よく投稿を拝見しています。そして、武田さんの先日「人は自分の殻に閉じこもっている期間に面白くなる」という投稿をお見かけし、スッと心が軽やかになる感覚を得ました。

ここ最近の私にとって、自分を閉じるというのは、”自分を大切にする&自分自身のケア”の意味を持った意図的かつ積極的行為であることが多いのですが、それでも心の端っこの方ではどことなく悪いことをしている様な…、少し重いような感覚が拭えなかったのですね。けれども閉じこもっているいる期間に面白くなると言われると、たしかに、閉じてはいるけど自分の足元の土に水をやったり耕している感はある…!とも感じられ、悪いことしているのかなぁとあまり思わずでも良いのでは、という感覚を得られたわけです。


また、先の言葉にふれて気が付いた事として、今と昔の私の中で閉じることがもたらすこと&その意味が変化しているとも感じました。心身共に絶不調であった15年前、20年前の私にとって、自分を閉じるというのは積極的行為というより、"そうするしかない”という何かに迫られる感覚や自分を大切にするというよりは、これ以上自分を擦り減らさない意図からだったかもなぁとか。ちなみに、これ以上自分を擦り減らさないという事と自分を大切にするというのは似ているようでちょっと違う感覚が私はあります。なんといいますか、前者は他者の目や行為に引っ張られて、迫られている感覚とでもいいましょうか。(伝わるかしら…)


そしてこのような事に意識が開きはじめると、
・誰かと思ったよりも会話が弾まなかった…
・ピアって、もっと仲間感を感じられると思っていたのに、あれ?
・自分を開いて接したつもりだったのに開いたのは私だけだったのかしら…
といった、どこかしょんぼりしてしまいそうな状況を前にしても「私と通じ合うのは今じゃなかっただけなのかも」「もしかすると、いまは自分を耕している時間にしていたのかな?」といった別の視点を迎えられるような気がしました。

どうしてこういったことを書いてみたくなったかというと、誰かと響き合えないときに「私の一言が悪かったのでは」「あの時○○すればよかったのかも知れない」といったことが次々浮かび過ぎると、向いている意識の方向は相手との関係性ではなくて、自分に対してだけ向いている…みたいになるなぁと思いまして。


何が言いたいのか、相変わらず上手くまとめらずなのですが、要は誰しもその人のタイミングで開いている時、閉じている時、様々あるのでピアサポートといっても、いつもいつも繋がりや響き合いが起きるわけでないということと、だからこそ「わーん。わかってくれる人がいた…」「あるある、そういうことあるよね」という通じ合えた、響き合えたときの気持ちといったら…!というのがあるのだろうな。という事でした。


ピアサポートの価値に基づいて日々働いている人にとって、日々はとっても普通の日だと思うんですね。でもその普通の日々の中で、たまに「あぁ今日はお互いに響き合えてよかった…、ピアサポートってやっぱりいいなぁ」と感じられる日があるのだと思うのです。なので毎日ドラマチックな事が起きるわけではけれども、ドラマチックな事や日はいつもと変わらない日常があってこそなんだなぁ…と思うと日々のピアスタッフ仕事、踏ん張れたりしないかな?と思って書いてみました。




つぶやき人:りえちん

2024年12月19日木曜日

9日目:自分を大事にすることは難しい

 こんにちは!

木曜日担当のえみです。

最近、考えていることについて…。


誰かに対して「まずはご自分を大事にしてくださいね」と声掛けをすることがあります。

そのお話をするとき、笑顔で頷いてくださる方、反応のない方、いらっしゃるのですが、戸惑ったような表情をされる方がいます。

最近、その表情がわかる気がしてきました。

立ち止まって、はて、自分を大事にすることとは…?と考えると、中々わからない。

自分を大事にする=自分を甘やかす、として好きなこと、楽しいことを思いっきりやろうと考えた場合…。

脂っこい食事、例えばラーメンや、とんかつ、を食べるとき、とてもわくわくした気持ちになります。よーし、食べるぞ!となって一口目、「おいしーい!」

…が、食後に胃もたれと強烈な後悔が訪れます。

果たして私にとってこれは自分を大事にしていることなのか、疑問に思ってしまいます。

まだその答えは見つかっていませんが、「自分を大事にすること」の前段階として、最近は心地よいこと、心地が良くないこと、を意識するようにしています。

そこからまた、心地よいとは?と疑問が出てくるのですが、例えば、これまで口や味覚を喜ばせることに集中していた食事を、胃や腸の様子を確かめながら食べてみる(例えば夜中にそんなに食べたら大変!やめて!と思ってそう…人知れず(持ち主も知らず)頑張り続ける胃はなんとも健気です)など。

一部に集中していたものを体全体に広げて、みんなに心地よい?と聞いてみています。

これをしていると大層時間がかかってしまうので、毎回できているわけではないですが、これまで心地よいかどうか、体に聞いていなかった自分にも驚かされますし、この時間が今の自分にとって大事な気もしています。


アドベントも残り一週間となりました。

良いクリスマスを、

そして良いお年もお迎えください。

(つぶやきびと:えみ)



              憧れの無印良品のお菓子の家!

2024年12月18日水曜日

8日目:お互いを知ることから始まる大きな世界

 

こんにちは!にしこです。 

このアドベントブログも今年で5年目。ようやく要領を得てきたかなというところです。ですがいまだに、びくびくしながら書いている面も正直あります。それは私の書くことが、誰かの大事な誇りや希望や信心といったものを貶めていないかという心配が常にあるからです。このブログは本当に小さなもので、読む人も限られてはいるものの、それでも公開の場には違いなく、そのような場で誰かを傷つけたりはしたくないなあと思っています。

 

私たちの暮らすこの社会にはいろんな人がいて、その立場や背景はひとりひとり違います。お金のない人/ある人、病気の人/健康な人、歳月を重ねた人/若い人、肩書きのない人/ある人、家族のいない人/いる人、日本文化の外で生活する人/中で生活する人、etc... 

想像をしだしたら限りなく、すべての人に配慮を配るのは至難の技に思えます。

 

私の通う大学院の同級生に在日ムスリム人女性の生活支援をテーマに研究をしている人がいます。ムスリムの社会では宗教的戒律からの女性特有の制限がいまだに多いそうです。ムスリムの女性たちが日本社会の中でいかに自分の望む幸せをつかんでいくかが研究の大きなテーマのようです。ですが、ムスリム社会で「正しいこと」とされていることは、日本ムラに生きる私から見ると、理解が難しいものが多々あるように見え、なかなか根深くて、難しいなあというのが正直な感想でした。

 

「ムスリムの人たちが、自分たちの大切なことを守りつつ、この日本で暮らしていくことはできるのでしょうか」とその同級生に尋ねたことがあります。その答えはこうでした。「まずはお互いを知ることなんです。私も最初は彼らの文化に馴染めなかったところもあったけれど、知るうちに人として理解し合い、交流することができるようになりました。お互いの信仰、信条、生活スタイルなどを知ることから始まると思います。」

 

「まずはお互いを知ること」

知っていたようで、改めて気づかされた言葉でした。私が足元に転がしておいた玉(ぎょく)を拾い上げて差し出してもらえた気分でした。

 

まだ知らない皆さんへ。皆さんにとって、私の散文が無礼をはたらいていないことを祈りつつ、いつか知り合える機会が来たら嬉しいです。

 

ではまた!

 

つぶやきびと:にしこ



近所の和菓子屋のうさぎのお饅頭

2024年12月17日火曜日

7日目 自分というものについて

 魯山人の「料理王国」という本を読んでいましたら、なるほどと思う文にあたりました。

「書でも絵でも料理でも、結局そこに出現するものは作者の姿であり、善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。一度このことに思い至ると、例えばどんなことでも、他人任せということはできなくなります。」

いわく、どんなに腕がよくても、「気の利いた人がやると気の利いた線が包丁の跡に現れ、俗物がやると俗悪な線が残る」とのこと。魯山人については勝手ながら食わず嫌いでなんとなく距離を置いていたのですが、学び始めると興味深いお方。まだ語るにはおこがましいのですが、このくだりを聞きながらいろんなところに通じる話だなあとおもったのでした。

自分が全てを印象付けてしまうというのはある意味で怖いことだと思います。どんなに学んでも、どんなに技術を身につけても、それが全てではなく、自分次第。でもそれだからこそ「ひと(である自分)」が「ひと」と出会うような仕事や関係性は面白いのだとも思います。

社会人になりたてのときや憧れの仕事についたとき、ただただその技術や理論にしがみついていたわたしを思い出します。それはもしかしたら自分に自信がないから、怖いから、理論を盾にしていたのかもしれません。でも今になって、すこぅし力が抜けて自分のままで関わることで現れる安心感とかほのぼのした空気というのを感じます。

これは、決して理論や技術なんて不要で、気を抜いたわたしでいればいい、ということではありません。仕事なら仕事のスキルを磨いていくことは大事。しかしそれと同時に、自分が生きてきた今までの人生を愛しんだり、いろんな感情を経験してきたことが、誰かの感情に寄り添えたり経験を称えられたりするように思うのです。自分をちゃんと磨いていくこととか、何よりも自分を愛することを怠ってはいけないということにつながるように思うのです。

そう考えると、年をとっていくことは悪いことではないな、と思う年の瀬なのでした。

寒いので、どうかご自愛くださいませ。(つぶやきびと:みどりん)

2024年12月16日月曜日

6日目:生存と実存のピアサポート

月曜日担当のかやです。

先日、全国「精神病」者集団の結成50周年の集まりに参加しました。分裂の危機に何度も見舞われながらも、半世紀に渡って存続し、国の検討会にも構成員を送り込んでいることに先輩たちに敬意の念を抱きます。世界を見渡しても50年以上活動している精神障害の団体は指折りできるくらいだとか。

わたしは、「病」者集団を、ピアサポートでもあるけれども、アドボカシーの色合いが濃い団体という印象も抱いていますが、歴史を紐解くと相互扶助が基盤の一つにあることがわかります。

結成される頃の1960年代から1970年代にかけて、圧倒的に社会資源のない時代に、精神科病院から退院先は限られていました。精神病者の身分でも入居でき、しかも低家賃のアパートは限られていて、同じような仲間が近くにまとまって住むような例がよくありました。お互いの部屋を行き来して、体調の悪い仲間を助け合うようなサポートが自然に成り立っていたそうです。悪徳な精神科病院から脱走した仲間をかくまうこともあったとか。この時代のピアサポートは、自身と仲間の生存のため側面がありました。

現代においても、開発途上国では公的な精神保健サービスが整備されていないため、当事者や家族たちが組織をつくり、資金調達からサービス提供までを行うことがよく見られます。あるアフリカの国の地域では、地元に医療従事者が一人もいないために、患者同士でお金を出し合って、仲間を隣国の看護学校に派遣したエピソードを聞いたことがあります。

誰も助けてくれないから自分たちでサポートを提供するしかない、という状況は、患者会が立ち上がった日本の1960年代の精神保健と共通するところがあるのかもしれません。

ちなみに、日本の診療報酬で精神科デイケアが新設されたのは1974年、今から50年前のことです。いまの日本では、生存のためのピアサポートの側面は当時に比べると薄れているでしょう。生活保護、障害年金、公的なサービスが、不十分かもしれませんが、整備されています。

かつての患者会の先輩たちが行っていたような、仲間の部屋を訪れて介抱をする、ご飯を作ってお裾分けする行為は、今では訪問看護やヘルパーが担っています。

いまの日本でのピアサポートの特徴は、生きづらさへの共感、仲間同士のつながり、生きづらさへの共感、自分らしい人生を生きるための指針といった類のものだと感じています。不安への向き合い方、生きる意味を探すというような実存のピアサポートという側面があるかもしれません。

全国「精神病」者集団の結成50周年の集まりの日、精神障害者リハビリテーション学会のシンポジウムにわたしは登壇していました。学会や研究に当事者参画することの意義のテーマでした。ピアサポートはもはや当事者だけのものというよりは、サービス提供、研究にも貢献していくような存在を期待されているようにも感じます。

50年後の2074年のピアサポートはどのようなものなのでしょうね。

2024年12月15日日曜日

5日目:らしくあること

 こんばんは🎄ながおかもんです。

1年ぶりのアドベントブログ。過去のブログを読み返すと、その年の状況がわかってなんだか良いですね。来年の私へは、2024年の今はドクターXに激ハマりで一気見する生活をしていることをここに記しておこうと思います。

さて、ピアサポートに関することかなのかはわからないですが、安心してありままでいられることってどんな状況なのだろうな…と考えていました。ちょうどゆっきぃのブログも同じようなことが素敵に書かれていて、ああそうだよねと思ったのでした。

ありのまま、って「らしくある」ことでもありますよね。今年の私は割と自分自身の人格に迫られるようなことが起こっていて、自分が変わらないといけないのかなど深く悩んだ年でもありました。こういうことを悩んでいるときは、世間的に評価を得られるようなことや認められるようなこと、強さ、賢さ、正しさ、などが網のように締め付けてくる感覚。でも、この感覚ってずっと昔から持っていたものかもしれない。そして外からやってくる「こうあるべき」「こうしてほしい」「こうしたら?」というものは、「らしくあること」からどんどんかけ離れていって本当にしんどい。

1周回って最近私が見つけた自分らしさは「弱さを大事に力に変えること」。力はパワーではなく、踏ん張ること乗り越えること良い結果をもたらすまでの指針となること。

これを見つけたときは本当にスッキリしました。それが「私らしさ」。

もちろんこれが通用しない世界もあると思いますし、「私らしさ」を翳して相手らしさを奪う道具にする危険性も気づかないといけないけれど。

「らしくある」ことを気兼ねなく出せる場が、そしてそれを「良いね」と受け入れ合う場がピアサポートであるかはわからないけれども、必要なのだと思います。


今年もクリスマスツリー🎄去年いた恐竜は何処へ。

2024年12月14日土曜日

4日目:心の声に耳を傾ける

こんにちは。

年末が近くなって参りました。慌ただしく過ごしてしまっていましたが、そんなときこそ、わたしには深呼吸が必要なのだと思います。

今日は、スティーブン・ポクリントン(Stephen Pocklington)さんというアメリカの方に教わって、自分なりにすごく納得しながら考えたことについて書きたいと思います。

ピアサポートって、自分の声に気付くこと、自分の思いに気付くことを助け合うことなのではないか。

自分の本当の声って、なかなか出てこない。これまで誰かから言われてきたことや、こうあるべきといった価値観に覆われてしまってなかなか出てこられない。そして森の中の小動物のように、何かの気配があるとさっと隠れてしまう。そんな自分の声に気付くには、静けさや安心(誰かや自分に責められたり評価されたりしない、安全で気持ちのゆとりをもてることなど)は大事。

なので、自分の声や思いに気付くことをピアサポートで助け合うとしたら、批判判断されないこと、話を聞く人は穏やかにそこにいて聴き、受け止めること、などは大事そう。

自分の声を聴こうとしている人の話を聴くとしたら、聴く側の好奇心で話を聞き出そうとせず、どこかの方向に誘導してしまうことなく、ただ相手の小動物(心の声)が安心して出てこられるよう、ゆったりとしているのが大事そう。

そして、そのような聴き手がいてくれる場合には、一人で頭の中で考えているよりも、自分の心の声に気付いたり、自分でも気付いていなかった思いを発見したりできることがある。

こんな考えもあり、ピアサポートの勉強会の場などでも、1対1で、一人10-15分ずつ、ただ話す(聞く人はただ聴く)、というのをしてみる、ということをたまにしています。

相談をするわけでも助言をもらうでもなく、ただ話し、聞いてもらうだけなのですが、私にとってはこうしてただただ聞いてもらえる時間を取ると、心が落ち着く感覚があって、確かにこれはピアサポートだな、と感じます。

最初の頃は、話す側の時、相手にわかりやすい順で話をしないと、とか、こんな話でいいだろうか?とか、思ったりしたのですが、そういう思いも、これまでの自分の生活の中で他者から言われてきたことから身につけてきてしまった自分への評価から来ている心配だったかも、と気付きました。

このように、いろんな価値観や自分への批判、診断を身につけてきたんだなぁ、としみじみ思い、そしてこれは私だけではなく、みんなそうなんだよなぁ、と、お互いにいたわり合いたい気持ちになっています。そんな話もピアサポートの場でしていけたらいいなぁ。

つぶやき人:ゆっきぃ


2024年12月13日金曜日

3日目:ピアサポートはいつでもだれとでも

 みなさま、こんにちは、りえちんです。

さて、今日は日頃思うことの中からひとつを書いてみたいと思います。それは「似たような困難の体験を有している人達が、その場に集まればそこでお互いにサポートし合うような営みや関係性がいつでもどこでも立ち現れるのだろうか?」ということです。答えはそう難しくもなく、「そんなこともないですよね」というのが率直な気持ちです。

ですが、(病気や障害に関わらず)似たような体験や境遇に立ったことが無い人同士よりかは、似たようなことを経験した者同士はきっと響き合える要素をお互いにいくつか有しているでしょうし、だからこそお互いに「それ、わかるような気がします」という響き合える感度と言いますか、機会?は高いのだろうなとも。

とはいえ、人と人なので、響き合えるなにかをお互いが有していたとしても、気持ちが交わらない時や、似ている所があるからこそ、あえて交わることを少し避けたい気持ちがでることもきっとあるなとも。

当たり前のことかもしれないのですが、こんなことをたまに頭の中でグルグルと考えたりしています。ただ、人と通じ合えない、誰にも理解されない、という気持ちをこれまで感じることがあったからこそ、「それ、わかるような気がします」「私も似たような経験あるんですよね」という人と出会えたときには、心がじんわりと暖かくなったりするなぁとか。

ピアサポートそのものは、いわゆる何かの問題解決手法とは違い、問題や気がかり自体が無くなるわけではありません。けれども、気がかりに向けて取り組む、自分自身の心の足場(?)を整えるためは無くてはならないものだなーとも。

ちょっとまとまらなくなってきてしまったので、今回はこの辺で!



つぶやき人:りえちん




2024年12月11日水曜日

2日目:12月ですね

みなさま、こんにちは!

しっぷろのえみです。
もうすっかり年末ですね…年齢が上がると12月=年の終わり、という感覚が強いです。
と、いいながら、12月のしっぷろアドベントです!

今年を振り返ると、ピアサポーターの方、経験専門家の方とご一緒する機会が多かったな、と思います。講演会でご一緒し、複数の登壇者で【語りを聴き、対話する】機会を持たせていただきました。
終わった後のアンケートを見てみると

「これまで病の経験を持つ方の話を聞くことがなかった」

「とても心に響いた」

「これからもこういう機会を持ってほしい」

このような感想がとても多かったことが嬉しく、市民の方向け講座だったのですが、手ごたえを感じた会でした。

2025年はもっとこんな機会を色々なところで増やしていけたらと思っています。

…やはり年末の締めくくりと来年の抱負になってしまいますね💦
ぜひ今年のクリスマスも楽しみたいと思います!

12月24日まで、ぜひご一緒下さい!


つぶやき人:えみ


              手作りクリスマスコースターです!





1日目:アドベントブログ始まります!!

 

こんにちは!にしこです。


今日からしっぷろアドベントブログを始めます!今年のアドベントは12月1日からだったらしいのですが、しっぷろのアドベントブログは少し遅れての開始です。例年通りクリスマスまで毎日しっぷろメンバーが交代でつぶやきます。今年はどんなブログリレーとなるのか、楽しみにしてくださいね。



さて、先日12月8日は、トラ・トラ・トラの日(日米開戦の日)、和久井映見さん(昔ファンだった)の誕生日、ジョン・レノンさん(今も敬愛している)の命日と、私にとってはいろいろ記憶に残る事柄が起きた日でした。また障害者週間の一日でもありましたよね。そんな12月8日、よく晴れた日曜日に日本ピアスタッフ協会主催の「実践ピアスタッフ交流会」という催しが開催されました。地元、東京都清瀬市での開催ということで、私は運営のスタッフ?お手伝い?山の賑わいの枯れ木?のひとりとして参加しました。


会自体は参加者、スタッフ合わせて34名という、例年の「全国ピアスタッフの集い」に比べるとやや小ぶりの会でした。でも中身はとても充実したものとなりました。地活に勤めるピアスタッフの方3名によるシンポジウムからは多くの学びを得ることができ、後半の交流会ではお近くの方や遠方からいらした方との交流を深めることができました。


共感できたり、発見があったり、刺激を受けたりと、シンポジストや参加者の方々からさまざまな言葉をもらいました。いろいろ印象深い発言の中で、とくに私に響いたのは、ある参加者の方からの発言。それは「ピアスタッフの活動はともするとソーシャルワークと混じり合ってしまう傾向があるんじゃないか」という趣旨の発言でした。なるほどー。


確かになあとまず私が思い当たったのはピアスタッフに関して使われる言葉のこと。エンパワメントとか、ストレングス視点とか、元々はソーシャルワークなどの他領域から来た言葉が、ピアスタッフの活動にも使われることってあるよなあと。それがすべて悪いとは言わないけど、その言葉が含む意味をよく理解した上で、自分で消化して自分の言葉として使う必要があると思います。特に専門領域から来た言葉は、ピアスタッフの立場ではよくよく考えて使わないと、自分たちの仲間を「対象化」してしいまう恐れはあるかもねと思い至りました。


と、いろいろ考えさせられて学び深く、他方で楽しいひとときもありの、とても充実した一日でした。



短い秋を経て、このところはすっかり冬。私の住む東京は毎日乾いた冬晴れが続いていますが、北海道や日本海側は雪模様のようです。先日、郷里の新潟の叔母に電話したら、「雪囲いが終わった途端、雪が降ってきた!」と言っていました。雪の深い地域の皆さんは、雪道や除雪中の事故など十分お気をつけください。


ではまた!


つぶやきびと:にしこ



近所の畑では青空のもと人参が広々と育っています