2024年12月20日金曜日

10日目:閉じてもいいし、開いてもいい

突然ですが、わたしはx(旧Twitter)で発信されているの武田紘樹さん(宇宙の研究をされている)のファンで、よく投稿を拝見しています。そして、武田さんの先日「人は自分の殻に閉じこもっている期間に面白くなる」という投稿をお見かけし、スッと心が軽やかになる感覚を得ました。

ここ最近の私にとって、自分を閉じるというのは、”自分を大切にする&自分自身のケア”の意味を持った意図的かつ積極的行為であることが多いのですが、それでも心の端っこの方ではどことなく悪いことをしている様な…、少し重いような感覚が拭えなかったのですね。けれども閉じこもっているいる期間に面白くなると言われると、たしかに、閉じてはいるけど自分の足元の土に水をやったり耕している感はある…!とも感じられ、悪いことしているのかなぁとあまり思わずでも良いのでは、という感覚を得られたわけです。


また、先の言葉にふれて気が付いた事として、今と昔の私の中で閉じることがもたらすこと&その意味が変化しているとも感じました。心身共に絶不調であった15年前、20年前の私にとって、自分を閉じるというのは積極的行為というより、"そうするしかない”という何かに迫られる感覚や自分を大切にするというよりは、これ以上自分を擦り減らさない意図からだったかもなぁとか。ちなみに、これ以上自分を擦り減らさないという事と自分を大切にするというのは似ているようでちょっと違う感覚が私はあります。なんといいますか、前者は他者の目や行為に引っ張られて、迫られている感覚とでもいいましょうか。(伝わるかしら…)


そしてこのような事に意識が開きはじめると、
・誰かと思ったよりも会話が弾まなかった…
・ピアって、もっと仲間感を感じられると思っていたのに、あれ?
・自分を開いて接したつもりだったのに開いたのは私だけだったのかしら…
といった、どこかしょんぼりしてしまいそうな状況を前にしても「私と通じ合うのは今じゃなかっただけなのかも」「もしかすると、いまは自分を耕している時間にしていたのかな?」といった別の視点を迎えられるような気がしました。

どうしてこういったことを書いてみたくなったかというと、誰かと響き合えないときに「私の一言が悪かったのでは」「あの時○○すればよかったのかも知れない」といったことが次々浮かび過ぎると、向いている意識の方向は相手との関係性ではなくて、自分に対してだけ向いている…みたいになるなぁと思いまして。


何が言いたいのか、相変わらず上手くまとめらずなのですが、要は誰しもその人のタイミングで開いている時、閉じている時、様々あるのでピアサポートといっても、いつもいつも繋がりや響き合いが起きるわけでないということと、だからこそ「わーん。わかってくれる人がいた…」「あるある、そういうことあるよね」という通じ合えた、響き合えたときの気持ちといったら…!というのがあるのだろうな。という事でした。


ピアサポートの価値に基づいて日々働いている人にとって、日々はとっても普通の日だと思うんですね。でもその普通の日々の中で、たまに「あぁ今日はお互いに響き合えてよかった…、ピアサポートってやっぱりいいなぁ」と感じられる日があるのだと思うのです。なので毎日ドラマチックな事が起きるわけではけれども、ドラマチックな事や日はいつもと変わらない日常があってこそなんだなぁ…と思うと日々のピアスタッフ仕事、踏ん張れたりしないかな?と思って書いてみました。




つぶやき人:りえちん