魯山人の「料理王国」という本を読んでいましたら、なるほどと思う文にあたりました。
「書でも絵でも料理でも、結局そこに出現するものは作者の姿であり、善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。一度このことに思い至ると、例えばどんなことでも、他人任せということはできなくなります。」
いわく、どんなに腕がよくても、「気の利いた人がやると気の利いた線が包丁の跡に現れ、俗物がやると俗悪な線が残る」とのこと。魯山人については勝手ながら食わず嫌いでなんとなく距離を置いていたのですが、学び始めると興味深いお方。まだ語るにはおこがましいのですが、このくだりを聞きながらいろんなところに通じる話だなあとおもったのでした。
自分が全てを印象付けてしまうというのはある意味で怖いことだと思います。どんなに学んでも、どんなに技術を身につけても、それが全てではなく、自分次第。でもそれだからこそ「ひと(である自分)」が「ひと」と出会うような仕事や関係性は面白いのだとも思います。
社会人になりたてのときや憧れの仕事についたとき、ただただその技術や理論にしがみついていたわたしを思い出します。それはもしかしたら自分に自信がないから、怖いから、理論を盾にしていたのかもしれません。でも今になって、すこぅし力が抜けて自分のままで関わることで現れる安心感とかほのぼのした空気というのを感じます。
これは、決して理論や技術なんて不要で、気を抜いたわたしでいればいい、ということではありません。仕事なら仕事のスキルを磨いていくことは大事。しかしそれと同時に、自分が生きてきた今までの人生を愛しんだり、いろんな感情を経験してきたことが、誰かの感情に寄り添えたり経験を称えられたりするように思うのです。自分をちゃんと磨いていくこととか、何よりも自分を愛することを怠ってはいけないということにつながるように思うのです。
そう考えると、年をとっていくことは悪いことではないな、と思う年の瀬なのでした。
寒いので、どうかご自愛くださいませ。(つぶやきびと:みどりん)