水曜日担当のえみです。
今年は様々な場所で「対話」について考える機会があり、また「対話」が生まれる場とは?ということについても考える機会がありました。
意図的に、あるいは意図せずにそういう場に身を置くことがあり、自分自身でも頭では理解できないながらも、まさに体験してみて、自分の中に対話ってこういうことなのかな?というものを形作っていくような感覚がありました。
あるとき、自分のことを語る機会がありました。
私の中の一番古い記憶で、三輪車に乗って、後ろの足をかけるところに頼まれていた卵パックを載せて運ぼうとしてた時、坂道で落ちてしまい、卵が割れてしまいました。どうしよう、怒られる、いろんな感情があったように思います。そんな話をしました。
なぜ、その場でその話をしようとしたのか、思い出せないのですが、話しをして、聴いてもらいながら、その時の感情が沸き上がって、泣きたくなるような切ない気持ちになりました。
私の中で話すはずもない、話す機会にも恵まれない小さな記憶だったのですが、なぜその場で話そうと思ったのか、聴いてもらいたいと思ったのか、いまだに謎です。
ただ、それを話してみたら、なんだかその記憶の自分の中への「納まり方」が変わったというか…悲しくなくなった、とかポジティブな記憶になった、といかそういうことでないのですが、まさに「納まり方」が変わった、としかいえない体験でした。
その納まり方の変化は、今までの形と違う寂しさを運んできた(自分の中で秘めていたことで保っていた記憶に対する哀愁が減った?)ともいえるのですが、まさに何かが変わったと感じた一件でした。
納まり方が変わる体験、その後も何度かあり、これまで秘蔵していた記憶が、とあるタイミング(訪れないときもありますが…)で表に出されることに対して、ワクワクする気持ちと、もったいないような、そのまま秘めておきたいような気持の両方を味わうことになりした。
皆様は、そんな体験はありませんか?
(つぶやきびと:えみ)
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